Category: 交遊

091213_073643.JPG昨日、石井先輩と私と私のワイフの3人で、茨城県の「ザ・ゴルフクラブ竜ヶ崎」でゴルフをした。このゴルフ場は、1990年(H2年)のバブル時代の真っ只中にオープンしたチャンピオンコースで、600ヤードのロングホールが2つあるタフなコースである。又、建設中に私が大型ゴムクローラダンプの新車を納めた因縁あるコースでもある。このメンバーで回ることが珠にあるが、昨日のスコアーは、石井先輩も私も低値安定でさんざんな出来だった。

このブログに何度かご登場頂いている石井さんは、私の6つ上(学年は5つ)の先輩でレンタル業を創業以来約40年の歴史を有する優良企業の社長さんである。元々或る小物建機メーカーの営業マンであった彼は、大阪から東京に転勤してくる際に質屋さんに入れていた免許証を勤め先の社長に受け出して貰って、やっと東京にやって来たという逸話を持つ豪傑である。お付き合いは約25年以上前に遡るが、S57年に私が九州に転勤する前に起きた或る出来事に、先輩が私に義理を感じていてくれて初めて取引頂き、爾来色々と面倒を見て頂いている。

私が独立した際も、最初は強烈に反対されたが、最後は折れて会計士さんもご紹介頂き非常勤役員までお引き受け頂いた。しかし、仕事以外は先輩と私はライバルで、常にゴルフや将棋でしのぎを削っるいるのだ。以前は、どちらも私の方が優勢だった?が最近では五分五分か、寧ろ私の方が分が悪い。昨日も、最後で逆転されて1打負けてしまい、悔しさ100倍だった。しかし、終わって駐車場に停めていた私のハリアーがパンクしているのを知って、最後まで修理を手伝って呉れる心優しい人である。そして私たち凸凹コンビは、『お互い死ぬまでゴルフが上手になれないだろうな!』と言い合う良い中なのだ。(●^o^●) 091213_133200.JPG

             <「ザ・ゴルフクラブ竜ヶ崎」(左上)と石井先輩の豪快?なフォーム>

今日の私のブログは湿っぽくて、面白くないかもしれない。去る11月22日の日曜日、ワイフの九州の友人が成田の日航ホテルに来たというので、ワイフは会いに行ったようだ。彼女は、下の息子の同級生の母親で九州に赴任した時に知り合い、彼女のご亭主が茨城県の土浦市の全農にお勤めしていた際も、親しくお付き合いをさせて貰っていた。彼女が今回来た目的は、ご子息夫婦が手当てした白井の新居の場所の確認と、ワイフに最後に会うためである。

彼女は、末期ガンで余命幾ばくもないらしい。彼女はワイフと同じ年齢なので、還暦を少し過ぎたばかりである。勿論彼女は、自分の病状をしっている。現在は、病院を出てホスピスの先生にお世話になりながら、自宅と往復しているそうだ。既に放射線治療も卒業し、痛みはモルヒネで和らげているらしい。モルヒネを打った時だけは、桃源郷に赴いた心持だそうだ。彼女は音楽の先生をしていたくらいで元々しっかりしており、今回ワイフと一緒に過ごした約1時間超の間も殆ど涙を見せず気丈に振舞っていたようである。

彼女は、既に覚悟が出来ていて自分の「お葬式」の段取りも葬儀屋さんと打ち合わせ済らしい。その話を聞いて、果たして自分だったらどうだろうか?と考えてみた。男は弱いもので、恐らく喚き散らし泣き叫ぶだろう。そして、「人間はいずれ誰でも死ぬんだ!」と泣き泣き諦めるのかもしれない。彼女は、全ての準備を行いご主人の行く末まで案じているらしい。何と、立派なことか!但し、ワイフとの別れ際に「主人を先に送って、息子家族と一緒に住みたかった」と言った言葉が、意味深長で何故か心に強く残っている。 091123_133439.JPG

 <人生は流れ出る水如し、泡沫に似て現われては消え去るのみか?/やさと国際14番TGから滝を望む>

上野駅前の丸井の裏で昭和通りから1本"アメ横"側に入った通りに、『ふみ作』(03-3834-2339)という一杯飲み屋がある。そこのマスターと言うか"親父"である三関雄三君とは、高校生時代から40年以上の付き合いである。彼は私と同じ中央大学を卒業して2年間ほど会社勤めをしたが、あっさりサラリーマン生活に見切りをつけて、若くして『ふみ作』という飲み屋を始めた。元々彼は3代以上続く江戸っ子商人の息子で、親父さんの時代には同じ場所で「麻雀荘」をやっていた事もあり、私もよく通ったものである。

彼は、根っから「江戸っ子気質」の持主で、さっぱりとして物事に拘らない性格から、昔から皆に"雄三、雄三"とファーストネームで呼ばれ好かれていた。彼は大学では、ギターが得意だった為マンドリンクラブに入り、私は別の友人とグリークラブ(男性合唱団)に入った。2年生になると折しも学生達にフォークソング・ブームの波が押し寄せ、"雄三"と私は合流し女性ボーカルを含む5人グループ『モンスターズ』を結成したのである。決して、演奏や歌は上手くなかったがラジオ番組で歌ったり、当時売り出しの「フォーククルセダース」や「ビリー・バンバン」とも共演した事もあった。

今日、その『ふみ作』に大学時代の友人が集まることになった。私を含めると4人だが、2人は大学時代からだが、1人は"雄三"と同じく高校時代からの友人でグリークラブも一緒だった。彼らと最後に会ったのが、去年の12月だったから9か月振りの再会だが、会えば即40年前に遡るから不思議である。次回のブログで、その様子を報告できれば幸いである。 090911_100426.JPG

<恥ずかしながら右が高校時代、左が大学時代の"雄三"と私>

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昨日、久しぶりに≪昔の会社の先輩達≫二人と一杯飲んだ。A氏とW氏は昭和36年入社の同期で、私より8年先輩である。A氏は昭和61年から平成元年に私が辞めるまで、福岡と東京本社で直属の上司であった。W氏は、セクションは違ったが同じ大学の先輩だったので懇意にして貰っていた。ご両人は私と違い、その会社(商社)で最後まで全うされた組で、A氏は役員だった関係上今から6年前に、W氏は最後は部長職で10年前にリタイヤーされたそうだ。

お二人の出で立ちはというと、A氏は立派な髭を貯えストライブの半そでにコットンパンツにスニーカー、W氏は髪を短く刈り上げチェックの半そでと、古希を過ぎた「お爺ちゃん」とはとても思えず素敵である。A氏は読書と音楽鑑賞特にカントリーミュージックが好きで、今でも奥さんと連れだってライブハウスに足を運ぶそうだ。W氏は、元々堅物だったので今の若者達や政治家のだらしなさを憂いつつ、晴耕雨読の日々を過ごしているらしい。

そして、いざ話となると『あの時の誰々は生意気だったとか、あいつとはよく喧嘩したとか、俺が支店長時代は良かった・・・』と言う風に数十年前の会社内の様子が再現され、時計の針が逆戻りするのである。そして最後は、『誰と誰が、何年前にガンで死んでしまった。』と御不幸通知に・・・・・。

私達3人は、3軒目の店で大いに歌った。その会社のOBたちへの応援歌であり鎮魂歌を!いつになれば、この先輩たちのように悩みがなく?身軽な出で立ちで颯爽と街を歩く日が来るのかと考えつつ、私も大いに声を張り上げたのであった。 オニヤンマ.jpg

<秋の訪れを感じさせるオニヤンマ>

毎年4月になると、4月10日生まれの彼の事を想い出す。彼の名前は鈴木栄治君、生年月日がワイフと全く一緒なので、私より一つ年下である。彼は、今から20数年前の或る夏の日、三重県鈴鹿市の路上でトラックと正面衝突し亡くなってしまった。彼は、私が学校を卒業して商社に入社した時には、既に業務部に在籍していて会社では先輩である。私が、"鈴木さん!"と「さん」づけで呼ぶと、『藤本さん、私は貴方より年下なんだから"鈴木君"と呼んでください』と言うほど生真面目な性格の青年だった。

当時彼は、板橋区の成増の実家に住んでいたので、近くの高島平団地に住んでいた私たちの家にしょっちゅう遊びに来てくれた。今でも、ワイフが作った食事を"美味しい、美味しい!"と言って食べてくれたことを想い出す。彼は、建設機械の営業を志望し私の課に配属されたが、或る飲み会で私の先輩が彼をからかったことから、先輩とかばった私が殴り合いの喧嘩となりそれから彼と親しくなったのである。彼は、イラストレーターを目指し一度会社を辞めたらしいが、私が入社する前に復職したらしい。当時私たちのアパートの壁には、彼が描いた"ドクロの目に弓の矢が貫通しているユニークな絵"が掛かっていた。

その後、私は九州福岡に転勤し、そして彼も三重県鈴鹿の営業所に転勤した。それから暫くしてして、私は久し振りに彼と話したくて或る夏の朝、彼の事務所に電話してみた。帰ってきた言葉が『鈴木さんは、昨晩交通事故で亡くなりました!』だった。これが「虫の知らせ」と言うものか?、それは、私にとって痛恨の極みであった。私は、支店長の許可をを得て、とるものもとりあえず鈴鹿に向かったのであるが、第1子を出産したばかりの奥さんとの久し振りの対面は筆舌に尽くしがたいものであった。

髑髏.JPGその後、ドクロの絵を壁から降ろしたのは言うまでもない。