Category: 交遊

先週の土曜日、上野の「ふみ作」に中央大学に昭和40年に入学した仲間が8人集まった。敢えて入学した年に拘ったのは、卒業が1年遅れの理工学部出身の奴ら2人いるからで、彼らの名誉のために入学年を標記したまでだ。この8人の内、附属高校から内部進学をしたのは、この飲み屋の主である三関雄三(みせきゆうぞう、通称:ユウゾウ)君や私を含めて6人である。今回、いつもはるばる宇都宮からやって来る陽気なムードメーカー竹島君が娘の看護学校の受験(彼は晩婚だった)付き添いで来れなくなったのは残念だが、新たに開沼中村両君が加わってくれたので場が大いに盛り上がった。

120128_193322.JPG                       <左が開沼、右が中村の両君>

というのは、彼ら2人は還暦過ぎて約40年振りにフォークソングバンドを再結成したという。バンド名は「The Welkins」、Welkin(ウエルキン)とは確か"大空"とか""という意味だったと思う。学生時代は、「ウエルキンズ・トリオ」と称し3人でバンドを組んでいたが、今は新たに一人加わって4人でやっているらしい。実は、雄三と私も「Manstars(マンスターズ」というバンド名で、当初は4人、後半は音楽学校在籍中の女の子を加え、彼らと新たに学内に立ち上げた『フォークソング同好会』で一緒にコンサートをやっていた時代があった。今回、当時のパンフレットをベース担当の中村君がワザワザ持ってくれたのには、感謝感激である。

1welkins.jpg                         <「The Welkins」の勇姿>

何せ45年前のパンフレットだけに、我々にとっては【お宝もん】である。只残念なことに、そのパンフレットには開演時間がP.M.6時と印刷されているだけで、肝心のコンサート日が抜けていた。恐らくその他にメインのパンフレットが有ったのだろう。彼らは、我々と同様、当時アメリカのフォークソング・グループで最も有名だったピーター・ポール・マリー(通称P・P・M)のコピーから入って行ったようだ。「500マイル」、「レモンツリー」、「花はどこへ行った」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、ピート・シガーの「天使のハンマー」やジョン・デンバーの「悲しみのジェット・プレイン」等彼らの代表作は今も歌い継がれている。

250px-Peter,_Paul_and_Mary_2006.jpg                         <ピーター・ポール・マリー>

「ウエルキンズ・トリオ」は、それ以外にも当時からユニークな取り組みをしていた。日本の古い歌や民謡をアレンジしてフォークソングとして披露していたのだ。例えば、雅楽の代表作である「越天楽(えてんらく)」や富山県の民謡「こきりこ節」、或いは熊本民謡「田原坂(たばるざか)」等だ。酔いが回るにつれ昔が懐かしくなり、2人にそれらを歌ってくれるようせがんだ。それが終わると、P・P・Mの曲や同世代のビリー・バンバンが作った「今君に恋してる」を吉原君や重藤君、ちゃんや根本君と合唱となった次第だ。そしてお開きは、"お決まり"の『惜別の歌』(作詞:島崎藤村・作曲:中央大学生)で締めくくったのである。

m_1967E8A898E4BA8BWelkins.jpg                 <「ウエルキンズ・トリオ」を紹介した当時の記事>

111029_104437.JPG11月3日で6歳の誕生日を迎える孫娘を連れて、先週の土曜日久し振りに鎌倉を散策した。池袋から湘南新ラインに乗り、丁度1時間で北鎌倉に到着し、円覚寺からあじさいで有名な明月院、昼食を済ませた後、鶴岡八幡宮を巡って小町通りを通り鎌倉駅で江ノ電に乗った。目指すは、長谷寺の観音さまと近くの大仏様である。時間が有れば、江の島まで足を延ばすつもりだったが、孫との約束通り大仏の中に入ったり、展望台から相模湾を眺めて居たらいつしか時間が超過し、横浜中華街の夕食時間が迫って来たため、止めにして宿泊地の横浜に向かった。

実は高校時代から鎌倉にはちょくちょく遊びに来ていたが、長谷の観音様と大仏様を観るのは初めてだった。それも直ぐお膝元にまで来ていたのだが、当時は若くて興味がなかったのかもしれない。と言うのは、高校時代の友人で鎌倉の長谷から私が通う武蔵小金井の中央大学付属高等学校まで通ってくる友人が居て、夏場は彼の家を拠点にして近くの由比ヶ浜に友達数人と繰り出していたのだ。彼の名前は吉田輝彦君、親父さんは弁護士で当時弁護士会の会長をされていたような記憶がある。居宅は、1100坪の敷地に立つ大豪邸で、隣は女優の香川京子さんの家だった。

111029_110730.JPG                     <修行僧が行き交う国宝の円覚寺舎利殿

所謂、昔で言うブルジョアの家系で家にはテニスコートが有り、大学に入ってから彼はジャガーを乗り回していた。おまけにお兄さんの愛車がMG、お母さんがフォルクスワーゲンのカブトムシと全て外車にだった事を憶えて居る。親父さんは、中央大学の法学部に行かせて弁護士にさせたかったらしいが、残念ながら彼は余り成績が芳しくなかった。性格も甘やかされて育ったらしく、少し軟弱で大人しく皆から好かれはするものの、からかわれる事も多かった。身体は大きくて少し太っていた為、運動は苦手だったが、テニスだけは上手だったと記憶している。

当時彼は面白い事に、1円玉を集めていた。1円玉は1955年(S30年)に造られた直径20mm、厚さ1.5mm、重さ1gのアルミニューム硬貨であるが、いずれ値が上がると信じていたのかどうかは知らないが、8円を10円玉と交換していた。コメットさんで知られる九重佑三子が好きで、彼女の為に金のネックレスを買って、自宅前で何日も待って渡そうとしたらしい(渡せたかどうかは、定かではない)。彼は高校2年の時、不良グループと付き合って退学になった。恐らく彼の性格からして、利用されたのであろう。

彼は、他の高校に転校し、大学は日大に進んだ。彼が大学を出て、望み叶わず?赤坂で喫茶店を数年間経営していた頃まで、付き合いは続いた。当時、引っ込み思案の彼には珍しく、可愛くて聡明なガールフレンドが出来ていた。その頃の彼の夢は、しょっちゅう遊びに行っていたハワイに彼女と一緒に移住する事だった。或る日の事、暫くぶりにお茶を飲もうとその喫茶店に行った処、その店は無くなっていた。気にも留めずに、それから更に10数年が経過した。その後たまたま彼の鎌倉の実家の近くに行く機会が有って、立ち寄ってみた処、実家は無くなり数軒の新しい家が以前の敷地と思しき土地に建っていた。

きっと今頃海が好きだった彼は、ハワイの海を眺めている事だろうと思う。

111030_083432.JPG      <絶景かな、絶景かな!29日に宿泊した横浜ロイヤルパークホテル59階からの眺望>

毎年10月20日は、「東産会」(とうさんかい)が帝国ホテルで5時から開催される。会場は毎年同じ帝国ホテル4階の「桜の間」だ。「東産会」とは、私が大学を出て初めて就職した三菱系の商社である東京産業株式会社の所謂OB会だ。現在、資本金約3,443百万円の東商1部の会社だが、私が入社した昭和44年当時は、資本金800百万円の2部上場会社だった。同期入社は、女子を含めると50人前後だったと記憶しているが、現在同社に残っているのは、専務のI君のみになってしまった。

H社長は、私の2年先輩で最初は経理部に入られたようだが、数年後に営業畑に移られ手腕を発揮されたようだ。温厚な方で、お会いしてお話する際は、何時もニコニコして気さくにお話頂ける。私は、20年間勤めてスピンアウトしたが、4年前に資格を得たため今回で確か3度目か4度目の参加となる。今年6月に完全にリタイヤーされた前社長のMさんは、昭和57年に私が九州福岡に赴任した時の、福岡支店長でご一緒した約3年間は思い出多い3年間だった。

111020_180715.JPG                       <いずれも懐かしい面々だ>

当時は未だパソコンが導入される前でメールもなく、在福中の4年11ヶ月の間にプライベートを含め40回ほど東京に来た憶えがある。仕事上、全幅の信頼を頂いていたし、福岡は住みやすい都市なので公私ともに充実した数年間だった。会には、90歳位の人から今年定年を迎えた人まで約80名の方々が参加されたが、いずれも懐かしい人達ばかりで、時計の針が忽ち30~40年前に戻るから不思議である。会がお開きになった後、現役2人を含め私が配属された旧「建設機械部」の連中7人が集まり、久し振りに盃を酌み交わした。私が現在の職業に就いたのは、この会社に入った事が(えにし)なので、今後ともこの御縁を大切にしていきたいと思っている。

(1)下駄を鳴らして 奴(ヤツ)が来る  
無題.JPG  腰に手ぬぐい ぶら下げて

  学生服に しみ込んだ
  男の臭いが やってくる
  ああ 夢よ 良き友よ
  おまえ今頃 どの空の下で
  俺とおんなじ あの星見つめて
  何思う

(2) 可愛いあの娘に 声かけられて
  頬を染めてた うぶな奴
  語り明かせば 下宿屋の
  おばさん酒持って やってくる
  ああ 恋よ 良き友よ
  俺は今でも この町に住んで
  女房子供に 手を焼きながらも
  生きている

 この歌詞の題名は、≪我が良き友よ≫だ。1975年(昭和50)頃に吉田拓郎が作って、かまやつひろしの歌で大ヒットした曲の1番と2番(6番まで有る)だ。昨日、大学時代の友人5人がこれも大学時代一緒だった友人が経営する飲み屋に集まった。計6人のうち5人までが、同じ附属高校に通った仲である。3~4ヶ月に1回催す例会なのだが、いつものメンバーの内1人が仕事で来れなかったものの、思いがけずそこで約40年振りに違う友人と出会う事ができた。

きっと彼は私のブログを見ないと思うから実名で登場して貰おう!彼の名前は「本間次郎(二郎?)」、高校・大学共に一緒である。当時私は彼とそう親しくはなかったが、元々その飲み屋の親父?と中学が一緒だった関係上、高校の校内や上野界隈で良く一緒になり言葉を交わしたものだった。通称"ジロー"は、高校2年生から理系を目指すクラスに入り、見事現役で理工学部に進学した。彼は小さい頃から、機械や車が好きだったようで、高校時代からホンダのバイクを駆ってレースに出て居たようだ。昨日初めて聞いた話だが、車好きが高じて『パリ・ダカ』にも2度出場したという。

彼の話に依れば、大学を出て直ちにIBMに入社しアメリカに渡ったそうだ。ITビジネスが黎明期を迎えたころであり、その後カナダに渡りスキルを身に付け、数年後帰国してITビジネスの会社を立ち上げたと言う。今は、その会社を息子に譲りボランティアの仕事に没頭しているらしいが、身体は満身創痍だという。バイクや車のレースで何度も骨折したらしいが、その他にガンで腎臓脾臓を聖路加病院で摘出したという。その他にも重度の糖尿病を患っているらしい。勿論の事、今で酒は一滴もやらない。

ところが、彼の表情には微塵も暗さがなく世界を股に掛けた彼の喋りは面白おかしく、小一時間彼の独壇場だった。今は長年連れ添った奥さんとも別れ、今流行りの歳が離れた彼女と一緒に住んでいるという。彼曰く、幾つかの病魔と共存共栄する事に依って新たな世界を生きているらしい。彼は、この歌のようにバンカラでも初心(うぶ)でもなかったが、歌の様な時代背景の中、逞しく生きて来たようだ。私は、何だか勇気を貰って≪我が良き友≫たちと別れて、酔いに任せ出発寸前の常磐線に飛び乗ったのである。 無題.JPG                         <こんな時代も有った?>

今日3月3日は、女の子の節句≪雛祭り≫である。或る時、或る人に、或る質問をされた事ある。「楽しいひな祭り」と言う歌詞の中に「お嫁にいらしたネェサマに良く似た・・・」というのがあるが、この場合お嫁に行ったのか来たのかどっちなんだろうかと?私は、日本語は難しいものだと思いつつ、"いらした" は「行く」と「来る」両方の尊敬語でもあるが、 この場合は、「お嫁に行ってしまった姉が恋しい(--〆)」と言う意味が含まれているみたいなので、「行く」が正しいだろうと答えた事が有った。

通勤の途中、そんな下らない事を考えながら運転していたら、今日が誕生日の或る男の顔が浮かんだ。彼は、昭和33年3月3日に生まれた今年53際になるS氏で、或るトラックディーラーの部長をしている。3時に産声を上げたかどうかは定かではないが、3並びの☆のもとに生まれた珍しい?男だ。彼は私の事を、尊敬の念を込めて『大将』と呼ぶ。私がそうかは別として『大将』とは、通常軍隊の階級の将官で中将の上の偉い?位の人物の事だ。そして、彼がカラオケで歌う歌は、『加藤隼(はやぶさ)戦闘隊』を始めとする軍歌が殆どなのだ。

斯くの如くユニークな彼は、小さい頃から野球が得意で、神奈川大学社会人野球を通じて正捕手として鳴らしたらしい。大学時代に練習試合で、現中日監督である落合に3本ホームランを打たれて監督に殴られたとか、社会人時代に札幌に遠征に行き、翌日出場しないと思って"サッポロビール園"で生ビールの中ジョッキを24杯飲んだら、明くる日先発捕手のアクシデントで、マスクを被る羽目になりへどを吐きながら野球をしたとか、いくつものエピソードを持っている男だ。

喧嘩早いのが玉にキズで、7,8年前に九州福岡に遊びに行き私の九州の仲間たちと合流して中洲の町を歩いていたら、向こうから来た若い男が私の進路を妨げようとしたため、危うく大喧嘩になりそうな事があった。何とか相手と同行のホステスらしい女性二人が、我々に謝って事なきを得たが、頼もしくも有り、やや危うさもある愛すべき人間だ。仕事の面では、大変几帳面で彼に物事を頼むとキチンと答えてくれるのである。しかし、仮に戦争になって私が『大将』で指揮をしたら、間違いなく彼は敵陣に真っ先に突撃して行く事だろう! 113718.jpeg

       <今年JR両国駅の階段に「雛人形の段飾り」が出現し、行き交う人の目を楽しませている>