Category: 交遊

昨日の夕方、一人の友人を上野の「永寿総合病院」に大学時代の同級生吉原君とちゃんと一緒に見舞った。その友人とは、三関雄三(みせきゆうぞう)君で上野駅前の「丸井」の裏で、「ふみ作」(03-3834-2339)という「飲み屋」を経営している。経営していると言えば聞こえがいいが、彼が料理して奥さんのさんが給仕をしたり、お客の注文でお酒を作ったりしていると言った方が正しいだろう。雄三とは、中大付属高から中央大学の同級生で、大学時代には「モンスターズ(怪物たち)」というフォークソングバンドを組んで、共に学生時代を大いに謳歌した得難い仲間である。

その彼が、食道ガンの手術を去る6月30日に受けたそうだ。今から約1カ月ちょっと前に、「ふみ作」をブラリと訪ねた際に、「藤本、俺明日胃カメラを飲むので一緒に飲めないんだよ」、「食べ物がつっかえて飲み込み辛いんで検査するんだが、初めてなんで不安なんだ」と言っていた事を思い出す。私は、10年以上前から胃カメラを毎年飲んでいるので、「雄三、全然平気だよ!なんなら俺の行きつけのクリニックの先生を紹介しようか?上田先生と言って胃カメラ検査じゃ日本では5本の指に入る名医なんだよ!」という「会話を交わした。

術後約2週間の彼は、私たちの心配をよそに大変元気だった。帰りに、薫さんと娘のユカが手伝って開けている「ふみ作」に寄った。薫さんは、昔近くの今は無き「アール」という喫茶店でウエイレスとして働いていたのを雄三が見染めたのである。先週雄三の様子うかがいに電話したした際、「雄三は元気だよ、店は私が手伝って、薫さんがやってるよ!」とまるで両親を友達扱いしている31歳になったユカとは、当然彼女が赤ちゃんの時からの付き合いだ。雄三は高校時代から吸っていた1日30本のタバコをやめたそうだが、早く我々と一緒に飲める日が来るのを祈って止まない。

山手線の大塚駅前にあるもう一つの「飲み屋」さん、「はま勢(せい)」は今週末で約30年培ってきた歴史を閉じるそうだ。この店もオーナーである丸山守康(まるやまもりやす)氏が奥さんと二人三脚で経営してきたお店だ。実は彼は、私の二男篤嗣(あつし)の嫁の父親で、昔青山大学のアメリカンフットボールで鳴らしたスポーツマンである。流石に、昭和16年生まれの寄る年に限界を感じると同時に、孫たちと触れあいを楽しむ老後を優先するために今回の決断を下したそうだ。私も何回かお邪魔して美味しい料理を頂いたそのお店に、明後日の14日に二男の家族は勿論のこと、長男の達也家族を伴って「ご苦労さま!」を言いに訪れる積りでだ。

この雄三と丸山氏に共通することは、素人ながら「水商売」の世界で店を興し、常連さんを相手に永い歴史を育んで来たことである。そして雄三は3人のお子さんたちを、同じく守山氏は2人のお子さんたちを立派に育て上げた。ただただ敬服するばかりである。 100712_070451.JPG

<日曜日の夕方2時間かけて雑草をトリ払ったガレージの上の植栽。お世辞だろうが、「マア、植木屋さんみたいね!」と珍しくワイフに褒められた>

 "はぁ~、オラが東京さ来る時に、
  くにのおっかあの言うことにゃあ~
  東京っていうとかぁすったこえ、とこだで
  あっちゃさ行ったら気をつけろ"

1960年(S35)に発売 された菊池正夫のこの歌を知っている人も少なくなったろう。菊池は、後に城卓矢の名前で歌った「骨まで愛して!」を大ヒットしたので、憶えている人も居る筈だ。私の東京産業時代の先輩坂下博氏は、この歌が十八番で、この歌か同じく菊池の持ち歌である「ダッキャダキャ節」を宴席で歌っては、大いに場を盛り上げたものである。私は、1969年(S44)に新卒で東京産業(東証1部)に入社し、配属された建設機械部に約20年間在籍した。丸の内に勤務した13年間の内、数年間彼と一緒に仕事をしたが、折しも1972年(S47)には、 「日本列島改造論」を引っ提げて、田中角栄が首相となったため、日本全国が空前ンの建設ブームであった。

翌年の名目建設投資がGSPの約24.6%を占めた(2009年度は8.9%)事からしても、その状況はご想像頂けるだろうし、油圧ショベルを中心とした建設機械も大いに売れた。当時東京産業の建設機械部は3課有って、それぞれ10人近く居たのだから部長席を含めると約30人の大所帯であったが、その中でも彼は中心的な存在であった。1942年(S17)生まれのその彼も今や68才、現在札幌の在住しているが、彼が久し振りに先週東京に出て来た。早速、後輩の植田君が音頭を取って、22日の土曜日に8人が銀座の居酒屋に集まったのだ。それぞれ立場が変わり、面影は変化した(●^o^●)?ものの、話題は40年近く前の時代に遡り、大いに盛り上がったのは言うまでもない。

因みに、写真手前の岡澤君(4年?後輩)は、未だに独身を貫き通し?年1/3はヨーロッパ中心に活躍する貿易会社勤務、その右の植田君(同じく4年後輩)は以前も書いたが、恵比寿で旭川ラーメン「うえだ」を経営し、頑張っている。一番右端で指をカメラに指している同期の石川君は、退社後兄貴が経営する会社を手伝っていたが、現在のソニー損保の代理店をやってるそうだ。その左のヒゲのオジサンは、未だ4年生の男の子を頭に二人の子を育てている小島さんで、アパート経営の傍ら産廃関係の機器の代理店をやっている。彼は1年先輩なので既に60数才?であるが、当然の如く孫のような子供たちが、目に入れても痛くない程可愛いらしい。

その左の紫ぽいシャツを着ているのが、確か5年後輩?の甲田君で、彼だけ今現在も東京産業に在籍しているが、来年7月に定年を迎えるそうだ。学校も中央の後輩だが、何でも心臓弁膜症の持病が最近医者から指摘されたそうで、定年後は働かずに退職金で悠々自適な生活を送る積りらしい。その左が、話題の坂下先輩、その左の一番奥が私である。一番左の白い上着を来ているのは、1年後輩の菅沼君と言い、現在産業廃棄物処理会社に勤務しているが、社長はゴルフ三昧で会社を或る程度任されていると聞く。勤務地が神奈川県の足柄上郡にあるそうで、以前茨城県取手市に住んでいたが、最近横浜市鶴見区に新居を買ったらしい。

皆楽しかったらしく、今は亡きこれも愛すべき先輩の熊岡氏が名付けた「熊岡レストラン」を覗いてみたが、既に店仕舞いをしていたため、止む無く交通会館の地下で夜更けまで痛飲したのだった。

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            <交通会館地下1階の飲み屋さんのおカミさんは、手が震えていた¿>

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昨日、学生時代の仲間5人とこれも学生時代の友人である三関(みせき)君が経営する上野の小料理屋「ふみ作」(03-3834-2339)に集まり、久し振りに旧交を温めた。彼らとは、比較的最近頻繁に会うようになった中央大学付属高校や中央大学時代の友人達だが、既に皆が還暦も過ぎており、ここで実名で紹介する無礼をご容赦願おう。  写真右から...

吉原君・・・彼とは高校1年の時に知り合い、彼は理工学部に進んだもののグリークラブ(男性合唱団)でも一緒で、私達がフォークソンググループ結成するまで同じ黄色のジャケットを着て、コンサートで歌を歌った仲間である。高校時代の彼の定期入れの中には、必ず千円札が入っており、それを当てにして試験開けなど池袋界隈で、よく映画を見たりお茶を飲んだりしたものだ。学生服で日劇ミュージックホールに行ったり、喫茶店で警察に補導されかけたのも今となっては、還る事が無い良い思い出である。今はピアノの練習に明け暮れる日々だそうだ。

根本君・・・彼も高校時代から一緒だが、クラスが違ったので大学からのお付き合いだ。吉原君と同様グリーのメンバーで、彼がバリトン私がベースだった。彼も昨年リタイヤーしたようだが、それまでは偶然にも我が社の近くの「船橋東武百貨店」に勤務されており、便宜を図ってくれた。写真では、おっかない顔に写っているが、生まれたばかりのお孫さんをこよなく愛する極めて心優しい御仁である。

昆(こん)ちゃん・・・彼も吉原君を通じて大学からの付き合いだが、当時青森県三沢に彼の実家(クリーニング店)に2年生か3年生か忘れたが、夏休みに遊びに行った想い出は今でも鮮明に脳裏に宿っている。顧客である基地内のアメリカ軍兵士の家に遊びに行ったり、未だ7月の寒い十和田湖畔でのキャンプは、今思い出しても鳥肌が立つほど芯から冷えた。皆スカンピンだったので、彼の親父さんがバイクで"おむすび"を持って来てくれた時には、生き返った思いがいしたものだ。一度離婚し、子供を連れて再婚した中国人の奥さんとは仲睦まじくやっているらしい。

竹島君・・・彼とは高校時代からの友人で、学部が違ったが同じフォークソングスループの一員だった。彼の家は当時、神田明神の真下の外神田にあり大学に近かったため、よく授業が終わったらよく引っ張りだして遊んだものだ。高校時代には、彼のお袋さんがこしらえてくれた「ノリ弁当」と私が買ったパンと取り替えて、胃袋を満たしたものだ。バンド時代には、PPMピーター・ヤーロウよろしく顎ひげを蓄えていたが、それが当時の可愛い彼のガールフレンドであるチャコ(久子)ちゃんにふられる一因となったらしく、今でも責任を感じている次第だ。この仲間内でも一番元気が良く、ムードメーカー的存在であるが、最近糖尿病が進んでいると聞いて心配している。

重藤(しげとう)君・・・彼は、200年以上の歴史を有する公立高校である「福岡県立修猷館高等学校」出身の秀才であるが、同郷で有る事と私の2人の兄も修猷館高等学校の出身だという事も有って、何故か馬があった。今にして思うと、東京に出てきて右も左も判らない彼にとって、ガールフレンドとの付き合いを始め私の行動はやけに新鮮に映ったらしい。、遊びの世界に引き込んだ私としては、当時修猷館の館長をされていて彼の司法試験合格を夢目見ていた彼の亡き親父さんには、今でも申し訳なさを感じている。又、彼と組んで対外試合をした「麻雀」は連戦連勝で、帰りに戦利した金で、お茶の水界隈で上手いものを食って帰った事も貴重な体験となっているのだ。

三関君・・・彼が撮ったから写真には写っていないが、40年続く「ふみ作」の主である三関雄三君にも触れておかねばならないだろう。彼とは、高校時代から一緒で大学では学部が違ったが、フォークのバンドで一緒にPPMの歌を中心にして各地を回った。怒られるが、成績は余り芳しくなかったものの何かしら人を纏める力が有り音楽の造詣も深いため、我ら「モンスターズ」のバンドリーダーとして活躍してくれた。フォーククルセダースビリーバンバンとも一緒に演奏した事も有るが、最初の公演である御茶ノ水の日仏会館での演奏会で、竹島君は手が震えて上手くギターが弾けなかったと振り返っていたが、彼は当時からふてぶてしく堂々としていて頼もしかった。

未だに働き続けているのは、私・昆ちゃん・雄三で後の4人は悠々自適の生活らしいが、今後も全員が死に絶えるまで(●^o^●)定期的に再会する事を約束して、開始から4時間後の9時過ぎに別れたののであった。

091213_073643.JPG昨日、石井先輩と私と私のワイフの3人で、茨城県の「ザ・ゴルフクラブ竜ヶ崎」でゴルフをした。このゴルフ場は、1990年(H2年)のバブル時代の真っ只中にオープンしたチャンピオンコースで、600ヤードのロングホールが2つあるタフなコースである。又、建設中に私が大型ゴムクローラダンプの新車を納めた因縁あるコースでもある。このメンバーで回ることが珠にあるが、昨日のスコアーは、石井先輩も私も低値安定でさんざんな出来だった。

このブログに何度かご登場頂いている石井さんは、私の6つ上(学年は5つ)の先輩でレンタル業を創業以来約40年の歴史を有する優良企業の社長さんである。元々或る小物建機メーカーの営業マンであった彼は、大阪から東京に転勤してくる際に質屋さんに入れていた免許証を勤め先の社長に受け出して貰って、やっと東京にやって来たという逸話を持つ豪傑である。お付き合いは約25年以上前に遡るが、S57年に私が九州に転勤する前に起きた或る出来事に、先輩が私に義理を感じていてくれて初めて取引頂き、爾来色々と面倒を見て頂いている。

私が独立した際も、最初は強烈に反対されたが、最後は折れて会計士さんもご紹介頂き非常勤役員までお引き受け頂いた。しかし、仕事以外は先輩と私はライバルで、常にゴルフや将棋でしのぎを削っるいるのだ。以前は、どちらも私の方が優勢だった?が最近では五分五分か、寧ろ私の方が分が悪い。昨日も、最後で逆転されて1打負けてしまい、悔しさ100倍だった。しかし、終わって駐車場に停めていた私のハリアーがパンクしているのを知って、最後まで修理を手伝って呉れる心優しい人である。そして私たち凸凹コンビは、『お互い死ぬまでゴルフが上手になれないだろうな!』と言い合う良い中なのだ。(●^o^●) 091213_133200.JPG

             <「ザ・ゴルフクラブ竜ヶ崎」(左上)と石井先輩の豪快?なフォーム>

今日の私のブログは湿っぽくて、面白くないかもしれない。去る11月22日の日曜日、ワイフの九州の友人が成田の日航ホテルに来たというので、ワイフは会いに行ったようだ。彼女は、下の息子の同級生の母親で九州に赴任した時に知り合い、彼女のご亭主が茨城県の土浦市の全農にお勤めしていた際も、親しくお付き合いをさせて貰っていた。彼女が今回来た目的は、ご子息夫婦が手当てした白井の新居の場所の確認と、ワイフに最後に会うためである。

彼女は、末期ガンで余命幾ばくもないらしい。彼女はワイフと同じ年齢なので、還暦を少し過ぎたばかりである。勿論彼女は、自分の病状をしっている。現在は、病院を出てホスピスの先生にお世話になりながら、自宅と往復しているそうだ。既に放射線治療も卒業し、痛みはモルヒネで和らげているらしい。モルヒネを打った時だけは、桃源郷に赴いた心持だそうだ。彼女は音楽の先生をしていたくらいで元々しっかりしており、今回ワイフと一緒に過ごした約1時間超の間も殆ど涙を見せず気丈に振舞っていたようである。

彼女は、既に覚悟が出来ていて自分の「お葬式」の段取りも葬儀屋さんと打ち合わせ済らしい。その話を聞いて、果たして自分だったらどうだろうか?と考えてみた。男は弱いもので、恐らく喚き散らし泣き叫ぶだろう。そして、「人間はいずれ誰でも死ぬんだ!」と泣き泣き諦めるのかもしれない。彼女は、全ての準備を行いご主人の行く末まで案じているらしい。何と、立派なことか!但し、ワイフとの別れ際に「主人を先に送って、息子家族と一緒に住みたかった」と言った言葉が、意味深長で何故か心に強く残っている。 091123_133439.JPG

 <人生は流れ出る水如し、泡沫に似て現われては消え去るのみか?/やさと国際14番TGから滝を望む>