Category: 悲しい出来事

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     <稲村ヶ崎の【ボート遭難慰霊碑】は抱き合ったまま発見された兄弟をモチーフにしている>

1.真白き富士の嶺、緑の江の島

仰ぎ見るも、今は涙

歸らぬ十二の雄々しきみたまに

捧げまつる、胸と心

2.ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら

風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に

力も尽き果て、呼ぶ名は父母

恨みは深し、七里ヶ浜辺

世の中には、楽しい歌、嬉しくて喜びを表す歌、寂しい歌、悲しい歌が有るが、この歌程もの悲しいメロディーと心を打つ歌詞を持つ歌も少ないだろう。これは、102年前の1910年(明治43年)1月23日に逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆し全員死亡した悲しい事件を唄った≪「真白き富士の嶺(根)」≫という題名の歌謡曲だ。アメリカ人ジェレマイア・インガルスが作曲した賛美歌に、同校の系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師だった 三角錫子(みすみ・すずこ、1872年-~921年)が作詞し、鎮魂の歌として12人に捧げたのである。

1910(明治43)年1月23日午後3時頃、一人の青年がシャツ一枚で二本のオールに縋って鎌倉七里ヶ浜沖を漂流中、偶然通りかかった小坪の漁船に救助された。後で判ったのだが、その青年は水泳が得意だった木下三郎(5年生 19歳)だった。漁船は七里ヶ浜には接岸出来ないため小坪漁港まで戻り、木下の冷え切った身体を焚火で暖め、大量に飲んだ水を吐かせ後、人工呼吸を施したが、木下は二度ほど薄目を開け、海の方向を指さしたただけで間もなく息を引き取った。その後、多くの漁船や連合艦隊第二艇隊の「鴎」「鴻」などの捜索の甲斐あって4日以内に全ての遺体が引き揚げられたそうだ。12人の名前は次の通りだ。

 5年生...牧野久雄(21歳)、笹尾虎治(20歳)、徳田勝治(19歳)、
         小堀宗作(19 歳)、木下三郎(19歳)、宮手登(16歳)
  4年生...谷多操(19歳)、松尾寛之(17歳)
  2年生...徳田逸三(15歳)、内山金之助(14歳)、奥田義三郎(14歳)
  逗子小学校高等科2年生...徳田武三(10歳)

この事故で、徳田正蔵氏は勝次逸三、義三郎(奥田)、武三の4人の息子を一度に亡くしてしまったのである。遺体が発見された時の記事を紹介しよう。

兄は死後も骨肉の情の護りも堅く、両手強直、全指を交互に強く交えて握りしめ、自己の双腕に全霊力を集めて弟を抱き居り、人々が之を離さんとするも既に強直せる指はなかなかに離れず。転た見る人をして感涙に咽ばしめ、後に其の状態を伝え聞きし者も覚えず眼頭に熱きもの溢れて止め得ざる次第でありました』・・・徳田勝治が弟武三をしっかり抱いて離さなかったのである。

正蔵は4人の墓に"ー今更に何を語らん言もなし諸行無常の法の深きはー"という歌を刻んだいる。「死者を死せりと思ふなかれ、生者あらん限り死者は生きん」という言葉が有るが、『東日本大震災』の行方不明者は未だ3,400余人、是非このような鎮魂歌が生まれて欲しいと私は思う。尚、≪「真白き富士の嶺(根)」≫は6番まであり、その歌詞は思わず涙を誘う。是非ユーチューブで聞いてみられるといい。