Category: 思い出

バヤリース・オレンジ」を飲んだことが無いと言う人は、居ないだろう。今は、水やお茶、或いはスポーツドリンク以外にも数多くのソフトドリンク自販機などで売られているが、私たちの小さい頃は飲み物と言えば、三ツ矢サイダーとこの「バヤリース・オレンジ」が定番だった。私は小さい頃身体が弱くて、直ぐ病気した。特に変なものを食べると、お腹を壊した。所謂「自家中毒」と言うやつで、当時原因が判らない吐き気や下痢はこの病名で、片づけられていたような気がする。

220px-Birelays-orange-asahibev2008.jpg従って、小学校の低学年までは、生魚や肉は勿論、果物でも柿やブドウは食べさせて貰えなかった。小学校の1年生の時、九州のとある炭坑町に親父の転勤で移り住んだが、同級生の悪ガキ連中と一緒に青柿を採って食べたところ、疫痢になって死にかけた事があった。入院した病院で私が"ひきつけ"を起こした際、舌を噛まないようにと、付き添っていたお袋がとっさに親指にガーゼを巻いて口に押し込んだと後で聞いた。少し回復して飲むことが許されたのが、林檎をすりおろして作ったリンゴジュースと「バヤリース・オレンジ」だった。

バヤリース(Bireley's®)」は、果汁飲料の商標である。日本では、今から60年前の1951年に発売開始されてた。沖縄県を除く地域ではアサヒ飲料(アサヒビールの子会社)から発売されていて、今では同社のロングセラー商品になっている。バヤリースの歴史は古く、1938年に米国の科学者、フランク・バヤリーが果汁の風味・香りを損なわないで長期間保存できる殺菌法を開発した。それを米国のゼネラル・フーズが特許を買い取り商品化したのが、「バャリース・オレンヂ」(1987年からバヤリース・オレンジに表記を変えた)だ。

 我が国には終戦後、進駐軍とともにバヤリース飲料が上陸するがするが、当初は清涼飲料水営業取締規則(明治33年内務省令第30号)の関係で市販することはできなかった。その後、1951年に朝日麦酒ゼネラル・フーズと「バャリース・オレンヂ」の一手販売契約を締結した。しかし、当初の製造は引き続きウヰルキンソンの工場で行われたという。当時は人工甘味料の清涼飲料水への使用が認められていたが、バヤリースはこれらを一切使用しなかったため、公園などの公衆の集まる地域ではバヤリースの空き瓶にアリが群がったと聞いたことが有る。

flash.jpg当時に比べて、味が淡白になったという「バヤリース・オレンジ」をかれこれ何十年も、私は飲んだことがない。しかし、バヤリースの看板を街で見かけたり、テレビのコマーシャルで見るたびに身体が弱かった小さい頃の自分と、"ひきつけ"で思いっきり噛んだ親指が痛かっただろう母親の顔を、おぼろげながら思い出す。

昨夜10時のニュースで首都圏の降雪を知って、慌ててハリアー四駆のワイパーを持ち挙げに駐車場に走った。久し振りの大雪に、今朝も5時に起きて雪かきをし、少しだけ豪雪地帯の方々の苦労を思い知った。中学の始めまで育った九州福岡は、冬は東京以上に寒い日が多いものの雪は左程積もらない。私が、背丈まで降り積もった雪を始めて見たのは、高校1年生の時にスキーをしに行った新潟県の 岩原(いわっぱら)スキー場である。当時は、スキーブームでウエアーを含むスキー道具一式を次兄に借りて、スキー客で満杯の列車に立ったまま数時間揺られて到着したのだった。

その後も学生時代、何度か友人と連れ立ってスキーに行ったが、大雪の時に必ず思い起こす事が有る。それは私が二十歳の1967年だった。夜行のスキーバスで、スキーのメッカ山形県の蔵王に向かった。私が明確に年度を憶えているのには理由が有る。バスの中で、私たちがやっていたフォークソングバンド【マ(モ)ンスターズ】の歌声を、ラジオを通して聞いたからだ。その番組名は、『フーテナニー'67』と言って、当時の売れっ子作曲家いずみたくの司会で、アマチュア・フォークソングバンドの歌を紹介するものだった。『'67』は、1967年の意味で当日偶々我々の下手くそな歌が放送されたのである。

翌早朝、スキー場に到着して滑り始めようとした時にその騒ぎが起こった。我々のグループではないが、バスに同乗して来た或る女子東大生が雪の上にコンタクトレンズを落としたと言うのである。天気は快晴で、雪は日の光を浴びて光り輝いていた。彼女は2m四方を指差して、『この辺りで落としたの!(--〆)』とノタマウ。しかし、大の男たち数人がかりで探しても、透明なコンタクトレンズはようように見出せなかった。約小一時間が経とうとしていたので、そろそろ諦めるだろうと思った私が甘かった。余程思い入れがあるのか彼女は一向に諦める素振りを見せないのだ。

そして目が疲れ切った頃、誰かが叫んだ。『雪を掬(す)って、ストーブにかけてみようぜ!』と。急いで食堂の金盥(かなだらい)を持って来て2m四方の雪の表面を浚(さら)って、ダルマストーブに乗せた。その結果、解けたお湯の中から見事"小さな宝物?"を見つけたのである。視力矯正法として、今では多くの人が愛用しているコンタクトレンズの原理を考え出したのは、画家であり発明家でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチだそうだ。それを1600年代に実用化したのが、デカルトだと言う。

その時始めて"東大生の凄さ、しつこさ?"を知った。≪デカルトが作ったものに女子東大生の執念を見た110215_063448.JPG     <今朝の6時迄に我が家の"KING's ROAD"の雪は、KINGの活躍で奇麗に除去されていた>