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9月3日(金) ≪今日はグッスリ「ベッドの日」≫
皆さんは、布団派それともベッド派?私は、千葉県の柏に住んでいるが柏に越して来てからは、20年以上ベッドで寝ている。学生時代もずーとベッドだった。恐らく今はベッドで寝ている人の方が多いのではないだろうか?実は今日は、「ベッドの日」だそうだ。9月3日は、グッドスリープデイ即ち「グッ(9)スリ(3)」で日本ベッド工業会が、小説「おっぱいバレー」で有名な水野宗徳氏が考えた語呂合せを採用したらしい。ベッドの形は、ヨーロピアンスタイル(ヘッドボードとフットボードがあるベッド)とハリウッドスタイル (ヘッドボードはあるものの足元の部分にフットボードがないベッド)に大別される。
英語教育の浸透した戦後世代からは、「ベッド」(Bed)と呼ぶ人が殆どだが、以前はドイツ語の「ベット 」(Bett) と呼ぶ人も多く、ドイツ語が主流だった医療現場に多くベッドが納入されていたためと思われる。 日本語では、"寝台"と言うが今時"寝台"と言う言葉を使う人は少ないだろう。唯一"寝台"と言う言葉を使うのは、2009年のダイヤ改正で全廃となった"ブルートレイン"に代表される「寝台特急」位のものだろう。「寝台特急」で思い出すのは、1961年(昭和36)に親父の転勤で九州から東京に出てくるときに乗った、ブートレインの元祖「あさかぜ」(東京-博多間)だ。
初めて乗った「寝台列車」、それもベッドが列車の長手方向に備わるゆったりとした"A寝台"だったから、えらく(●^o^●)興奮した事を子供ながらに憶えている。隣の席が、『月影のナポリ』や『メロンの気持』、『じんじろげ』等を歌って売り出し中の森山加代子だったから尚更である。私が見た初めての芸能人である。今乗ってみたいのは、国内では上野-札幌間を走る「トワイライトエクスプレス・カシオペア」、海外では「オリエント急行」無き後のユーロナイトのアルテシアナイト(フランス-イタリア間)とシカゴとロサンゼルスを結んだ「カリフォルニア特急」である。
「ベッド」から少し話題が飛躍したが、寝たくないベッドは介護ベッドである。今私が使っているベッドのサイズは何かって?、それは内緒で~す!(●^o^●)但し身体が大きいので、大きいサイズに間違いありません。
"カシオペア">
昨晩、正月以来長男・次男とその家族を含む藤本家一党8人がJR大塚駅前の或る店に打ち揃った。その店の名前は、「はま勢」、今週末で四半世紀に亘る歴史を閉じる。その店のオーナーは丸山守康氏で、私の二男篤嗣(あつし)の妻由紀乃の父親である。彼は、昭和15年生まれで今年「古希」を迎えるが、青山学院時代に当時としてはやる人も少ないスポーツだったアメリカンフットボールで明け暮れていたらしい。今でも毎日トレーニングを欠かさない偉丈夫であるが、小柄で淑(しと)やか、それでいてしっかり者の奥様千眞子さんとは或る意味好対照だ。お二人は、慰労の目的で行った我々家族のため逆に昨日は貸し切りでもてなしてくれた。
彼の性格は、例えれば長嶋茂雄タイプで細かなことに頓着せず、人と会話してる時は絶えず笑顔を絶やさない好漢である。つい最近も、総理大臣を辞したばかりの鳩山由紀夫氏がわざわざ別れを惜しんで、寄ってくれたらしい。弟の邦夫氏も或る日、ぶらりと寄ってくれたという。彼は元々画家志望?だったらしく二男夫婦の結婚式のパーティのウエルカム・ボードには、彼自身の手になる若い二男夫婦が互いに見つめ合う油絵が供されていた。従って、ガラス窓他に張られた絵や「お品書」は、全て彼の作品である。彼にとって、ラガーマンだった二男は、似たような格闘技兼ボールゲームをやる同士であり、大の仲良しだ。
写真を撮り損ねたがもう一方の壁には、大柄な彼と市ヶ谷自衛隊駐屯地で45歳で自ら命を絶った小柄な「憂国の士」、三島由紀夫が肩を並べた珍しい写真が飾ってある。何でもウエイトトレーニング仲間だったらしく、当時から三島は常々「死に方というのは、人間の生き方と同じで非常に重要だ。僕は文士として死にたくない。絶対に嫌なのだ」と言って憚らなかったらしい。この店は、来週から解体業者が入って解体し始める事になっているらしく、さぞかし断腸の気持ちと思いきや、ご本人は元々70歳までと決めていたらしくサバサバしたものだ。寧ろこれからは夫婦で旅行や趣味の領域の何にでもチャレンジ出来ると奥様の千眞子さんも満足げである。
斯く言う私も実は第一線での商売は70歳までと心に誓っているが、果てさてその通り実践できるかどうか不安の毎日である。昨日は物事を成し遂げたお二人の優しい笑顔が、やけにまぶしく見えたのだった。
昨日暇が出来たので、急に思い立ってワイフとホームコースの「やさと国際ゴルフ倶楽部」に行って来た。朝スルーで午後1時には帰宅し、「日本プロゴルフ選手権」の宮本選手の優勝も見る事ができた。スコアーは、89回で私にしてはマズマズだったが、最終ロングホールのスコアー10は何とも頂けない。フロントナインが6オーバーの42、後半も3パー・4ボギー・1ダブルボギーで494ヤードの易しい最終ホールに差し掛かり、ドライバーで打ったボールが左のラフに!
残り約240ガードを本来であれば、3番ユーティリティー(ウッドとアイアンの中間クラブ)で打って、残りの30~40ヤードを寄せてパーでおさめる処、石川遼君の"直ドラ"(フェアウエイでドライバーを使うショット)の印象が頭に残っていたため、スプーンを持ってバーディを狙って行った。結果は大きくフックしてOBゾーンへ、打ち直しがチョロで100ヤードしか飛ばず、残りアゲインストの140ヤードを8番アイアンで打ったが、左バンカーに捕まってしまった。更に目玉のバンカーから打ったボールがトップして池にはまり、ようやく乗せて8オンツーパットの10となった次第である。
「終わりよければ全てよし」(シェークスピアの戯曲の題名:ALL'S Well The Ends Well)と言うが、終わりが最悪だった。この言葉に似た中国の格言に「画竜点睛」(がりょうてんせい)が有る。竜の絵を描いた時に、最後に目を入れる事の例えとして、「物事を完成させるために最後に加える大事な仕事或いは仕上げ」の事を言う。「画竜点睛」で思いだす事がある。今から30年以上前に市川市に辺見さんと言う土建屋さんが居た。とっくに潰れてしまたが、怒りっぽいが大変優しい人だった。その彼がある年の暮れに、ワザワザ電話をくれて「お前に餅代を用意しているから来い!」と仰る。
丁重にお断りしたのだが、言い出したら聞かない人で結局有り難く頂く事にしたのだが、開けてみてビックリなんと当時としては破格の5万円が入っていた。時効だから明かすが(ワイフには内緒にしてた?)、お陰で心豊かな?正月を迎える事が出来た記憶がある。何故「画竜点睛」か、と言うと辺見さんの背中には"竜の彫り物"が有ったのだ。彼は若い頃、「丸金」の屋号で有名な、高橋組(明治時代に結成された東京浅草に本拠を置く暴力団。指定暴力団・住吉会の2次団体)に所属し、国際劇場辺りを根城にしていたそうだ。
当時彼の幼いお子さんたちが、「パパのワッペン」と呼んでいた"竜の彫り物"には、"目"が入っていなかった。刺青も彫り続けると高熱が出るそうで、"目"は暫く経ってから彫り込むのだそうだ。彼は目を入れる前に奥さんと知り合い、「足を洗った」という。そんな遠い昔を思い出しながら私は、「日本プロゴルフ選手権」を見終わった後、"目"を入れるべく中村コーチに教えを乞うためゴルフ練習場に向かった。
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4月21日(水) ≪「私の履歴書」≫
私は、昭和22年1月30日に三菱鉱業(現三菱マテリアル)に勤める父栄壮(えいそう)と夏子の6番目の子として福岡県の飯塚市で生まれた。もし私が日経新聞の「私の履歴書」に登場するとなれば、こういう書き出しで始めることだろう。更に続けてみよう。藤本家は元々広島県の造り酒屋の家系で、父の父親、つまり私の爺さんの松太郎は、弟に家督を譲り九州に渡ったそうな。父の遠い親戚で、許嫁(いいなずけ)だった母夏子は、旧姓を矢野といって黒田52万石の家老の家系で、母方の祖父である梓(あずさ)はチェロ弾きで登山家だったらしく、富士山に何度も登ったという話を幼心に聞いた記憶がある。
私が生まれた飯塚市は、五木寛之の『青春の門』の舞台になった筑豊の街だが、私は生まれた直後に、父の転勤で福岡市に移ったため全く記憶にない。その後、幼稚園と小学校の1年生まで福岡市で過ごし、再び筑豊の炭坑町である福岡県鞍手郡鞍手町大字中山に転居した。この街は、北九州市(小倉都心部)から南西に約20km、福岡市から北東に約60kmの距離にあり、筑豊地域の北端部に位置する歴史の古い街で、昔矢で馬の鞍を射抜く程の豪傑が居たと言う故事来歴からこの町名になったらしい。
私は、剣北小学校の1年後半から5年生の途中までの約4年間を過ごして、再び福岡市に戻るのだが、この炭坑町での出来事は、強烈印象として私の脳裏に焼き付いている。自然が豊かなところで、私は初めて透き通った川でフナや鯉を釣ったり、山では山芋掘りや鳥の巣の卵を持ち帰り孵化させようと試みたりで、都会では経験出来ない体験をした。当時は、昭和28年に始まった『朝鮮戦争』の影響で、石炭は"黒いダイヤ"と呼ばれ、病院やスーパー(購買といった)なども経営するこの三菱の街は大変な活況を呈していた。不良炭を大きく積み上げたボタ山の夜中に燃える赤い火や、炭鉱の坑道からカンテラを付けたヘルメットを被って出て来た炭鉱夫の煤けた(*_*;は、今でも鮮明に憶えている。
しかし、そこは完全な格差社会だった。一般の職員住宅は丘の上に有って、所長や副所長の家には庭に噴水が有った。一方、鉱員(炭鉱夫)の家と言うと長屋形式の粗末な住宅で、共同風呂、共同便所だったのである。そのような環境下で同じ小学校に通うのだから、身なりや持ってゆく弁当には大いに差が有ったのだ。勿論鉱員の子供の中では、おかずが入っていない「日の丸弁当」を持ってくることはざらで、持ってこれない子も多かったと記憶している。従って、勢い子供の力関係も格差が付いてきて、私なんかは今では恥ずべき事ながら、都会育ちを鼻にかけ、番長並みの振る舞いをしていたかも知れない。
最近、久し振りに当時の仲間達と酒を酌み交わす機会が有ったが、『俊雄ちゃん』は、坊っちゃんで良い暮らしをしていたね!と言われ、大きな身体を小さくしたしたものだ。では、「私の履歴書」の続きは、いずれ又! 20100421112050770.pdf(左をクリックしてみて下さい)
【写真左から次兄の善幸、六つ上の隆之、祖父の梓、三つ上の富子、母夏子、手伝いに来てくれた白石さん、私、長兄の博之、長姉の博子(時は昭和29年の暮れか30年の新年当時/博之と善幸は東京の大学から帰省中、姉の博子は第一子を身ごもっていた)】
昨日、(社)全国建設機械器具リース業協会の荒井会長と私を含む副会長3名、そして大屋専務理事の計5名でコマツの坂根正弘会長に会いに行った。目的は、レンタル単価の下落で混迷する建機レンタル業界の正常化に向けての協力要請である。その場には、コマツレンタルの責任者である建機マーケティング本部の須藤循環事業部長も同席され、約1時間程の会談であったが、非常に良い感触を得て辞することが出来た。坂根会長は、5月には日本経団連の副会長に就任されると言う事で、テレビの出演や講演で非常に忙しい毎日を過ごされているようで、私としても貴重な体験をさせて貰った。
ところが、その後が問題だった。喫茶店でお茶を飲んだ後、皆さんと別れて地下鉄でJR新橋駅に出て、新橋から15時8分発の成田空港駅行きに乗って船橋駅に降り立ったのである。迎えの車に乗って事務所に到着、その後来訪された三笠産業の寺本さんとお話している際に、ドコモの携帯電話が無いのに気付いたのである。事務所の女の子のアドバイスで、GPS機能を駆使すれば有る場所が特定できるという事で、すぐさま近くのドコモショップに向かった。今の携帯電話は色んな情報が詰まっており、又私の場合『おさいふ携帯』機能も付けていたので少し心配したが、グリーン車内に忘れたので、見つかる可能性は高いと思っていた。
案の定、GPSで検索した結果、私の大切な携帯電話は「JR成田空港駅」に有ったのである。早速成田空港駅に連絡を取り、携帯トストラップの特徴を言って確認し、取りに行く羽目となった。この≪大失態≫で半日を無駄にすることになったが、最近ちょくちょく若い頃にはしなかったような失敗をすることが有る。以前にも1回携帯電話を失くして不便な経験をしており、便利な物こそほど、それを失った時の対策をキチンと施して置くべきだと痛感した私の≪大失態≫であった。



