Category: 歴史

我が千葉県には、現在約5,157平方キロメートルの面積(全国28位)の中に6,187千人(同6位)の人が住んでいる。都道府県ランキングでは、県民総所得・就業者数・住宅着工戸数・漁獲量・工業製品出荷額・銀行預金残高・小学校数・人口増加率・若者数?・グーグル検索数等が人口同様6位だそうだ。世帯数・自動車保有台数・銀行貸出残高・駅の数は7位らしいが、工事出来高・ゴルフ場の数が5位、観光客数が4位、農産物産出額とラーメン屋の数が2位だそうだ。(自殺者数は7位!)

ご承知の通り千葉県は、東西・南を海に接して居り、所謂袋小路状態が災いして首都圏に於いて神奈川や埼玉に後れを取る事が多々有ると言われている。又、昔からヤクザが多い事でも知られているが、我が県が生んだ代表的な偉人の1人に「伊能忠敬」を挙げる人が殆どだ。物の本に依ると彼は、九十九里に生まれ不幸な少年時代を過ごしたが、勉学をよくし養子先の商家では事業を3倍ほどに拡大させた後に、50歳で暦学や天文学を学ぶため江戸に出たという。

51歳で江戸幕府の天文方を勤める19歳年下の高橋至時(よしとき)に師事し、瞬く間に暦学を学ぶ一方で自費で高価な当時の観測器具を購入し、寸暇を惜しんで測量技術の習得に没頭したそうだ。彼は寛永12年(1800年)、56歳の時に江戸幕府に建言して蝦夷地、今の北海道から第1次測量を開始した。ロシアとの関係が緊張し始め事もあって、慌ただしく出発忠敬を含む6人は、十分な機材を持たず、距離の測定は、1歩を凡そ70cmとして計測したという。その時の測量地図を見た幕閣はその精巧さに驚き、忠敬はやがて幕府の以来で何度も測量旅に出るのであった。

日本全国の測量を開始した彼は、1815年2月19日最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!あとは、誤差を修正して各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけであったが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病み、1818年73歳で病没する。そしてその後彼の功績を知らしめる為、高橋景保(至時の息子)や弟子たちは彼の死を伏せて、完成した地図を発表したのであった。

こうみると忠敬は、50歳までと51以降73歳までの二つの人生を上手に歩んだことになる。私もこの会社を立ち上げた時が51歳の時で、少し遅いと思っていたが、彼の功績を見るにつけ決してそうではないと思うに事で安堵したものである。 inou3.jpeg                       <忠敬が作った日本地図の一部>

昨日私の兄弟6人の新年会で、浅草の観音さま(正式名称:聖観音宗金龍山浅草寺/しょうかんのんしゅう・きんりゅうざん・せんそうじ)に詣でた。3年振りの浅草寺だったが、仲見世通りは外国語が飛び交う相変わらずの大賑わいで、歩くのがままならないほどである。本堂は『平成本堂大営繕』の中のチタン屋根改修工事が始まっており、ご覧の通り大きな龍の絵が描かれている工事シートが掛かっていた。その後池之端に移動し「東天紅」で昼食を済ませた後、すぐ裏にある≪旧岩崎邸庭園≫を覗くことにした。

ここは、三菱の創設者岩崎家の旧邸宅を東京都が公園として整備したもので、英国人のジョサイア・コンドル設計の歴史的建造物は、国の重要文化財に指定されている。元々は、越後高田藩江戸屋敷跡らしいが、変遷を経て岩崎家の本邸として竣工した明治29年(1896年)には、今の3倍ほどの15,000坪余りの敷地に20棟もの建物が並んでいたそうである。現存するのは、本格的洋風建築の木造2階建の洋館とそれに地下道で繋がる撞球室(ビリヤード場)、そして橋本雅邦が描いた障壁画を残す書院造りの和館のみである。

係りの人に聞いたところに依ると、NHK大河ドラマ「龍馬伝」に岩崎弥太郎が度々登場するせいか、ここ最近訪れる人が増えたそうだ。蛇足だが、私は親父が三菱鉱業(今のマテリアル)で生涯を全うしたことに加え、私自身が三菱系の商社に約20年間身を置いたせいか、どちらかと言えば三菱贔屓である。三菱村?の「丸の内」で勤務していた13年間は、親父同様キリンビールしか飲まなかった。(もっとも当時丸の内には、殆どキリンビールしか置いてなかったと記憶している)しかし、三菱と縁が切れた今では、その当時を反省してか?アサヒやサッポロを頼むことが多くなった。

今話題の音羽の「鳩山会館」にも近々行ってみる積もりだが、寛永寺や迎賓館或いは池上本門寺や東京国立博物館等の重要文化財を巡るツアーも有るそうで、是非暇を見てチャレンジしたいと考えている。

sennsouji.JPG nakamise.JPG  〈浅草寺と岩崎邸〉 岩崎.JPG 岩崎邸.JPG

法蔵院.JPG年末に行けなかったので、一昨日の10日家内方の墓所が有る台東区谷中「法蔵院」(左)に墓参りに行ってきた。この「法蔵院」さんは、天台宗の由緒あるお寺だそうで、何でも江戸の地に徳川幕府が開かれた慶長3年に遅れる事13年後の慶長 16年 (1611 年)に江戸城の建設や市街地の拡張のため大工事が行われ際に、神田寺町に寺領を賜り、 浅草の東光院末寺として開創された由。 その後、 江戸の町は徳川幕府の中心地として発展を続け、 人口も増加したため、 神田寺町の寺院は他所に移されることになり、 慶安元年 (1648 年) に「法蔵院」さんも、谷中の現在地に移転したそうだ。

≪谷中≫と言う名前の由来は、上野と本郷の二つの台地の谷間に位置することから名付けられたようだが、谷中生姜でも知られるこの地には、現在生姜を作っている農家は一軒もないとの事。江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中にもその子院が次々と建てられたそうだ。また、幕府の政策により慶安年間(1648年〜1651年)に、前述の如く神田付近から多くの寺院が移転して来たが、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院も移転して来たそうな。寺の増加(現在70ヶ寺以上)に伴い参詣客も増えると徐々に町屋(町人の住まい)も形成され、江戸庶民の行楽地として発展したようである。

しかし、戊辰戦争(ぼしんせんそう)慶応4年(明治元年)~明治2年(1868~69)の折の薩長土肥の新政府軍と彰義隊による上野戦争で多くの寺院が焼失したと言う。「法蔵院」の先代のご住職にお聞きしたのだが、残念ながら當山の記録、 書類なども戊辰戦争の際に焼失してしまい、 その歴史はつまびらかではなないそうだ。又、近くの谷中霊園には、鏑木清方佐々木信綱渋沢栄一徳川慶喜ニコライ・カサートキン長谷川一夫鳩山一郎横山大観などの墓所があり訪れる人も多いと聞く。

実は私、数年前に自宅の近くの手賀沼が望める丘の霊園に 自分の墓所を確保した。しかし現在都内に住む息子たちは、以前我が家で育ったにも拘わらず、『えらい遠いね!』とのたまう。故に、そこを返して「法蔵院」さんの空き墓所をお世話頂こうかと迷っているところである。但し、価格は恐ろしくて未だ聞いていない!
街角賞.JPG ヤマダ.JPG〈(左)築200年以上の観音寺の築地塀・(右)「法蔵院」に行った時には必ず立ち寄る裏の浄土真宗「善龍寺」にある山田レンタル故山田明前社長のお墓(H7年50歳にて没)〉

一昨日、『東京建設機械リース業協会』の"40周年記念セミナー"行事にに参加するため、鬼怒川温泉に車を転がして行って来た。行く途中の道すがら、温泉峡に入る手前の田舎道で一対の≪道祖神≫を見つけた。≪道祖神≫は、村の守り神として、多くは村の中心、道の辻、三叉路に立っているようだ。村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願するもっとも身近な神として、男女像を独特の知性とユーモアで造り上げたものが多いようだ。

≪道祖神≫の種類には、単体道祖神・単体二神道祖神 ・球状道祖神・文字型道祖神・男根型道祖神・双体道祖神・餅つき道祖神(男女の性交を象徴する)・自然石道祖神などがあるそうだ。元々、道祖神の「」の漢字のつくりの「且」は、甲骨文字、金文体上では男根を表していて、これに呼応するように、文字型道祖神では「」の文字が女性器の形をしているものもあると聞く。古くは、奈良県明日香村にある飛鳥時代の石人像(重要文化財)が、道祖神の始めとされているが、男女の営みを通じて"守り神"信仰が生まれてきたようだ。

平安時代の書物にも既に『道祖』という言葉が出てきているそうで、その時代から"結界神"(村と外界を分かち災厄を村に入れないための神)として、我が国の方々に建てられてきた模様だ。特に関東・甲信越地方に多く分布しているようだが、出雲神話の故郷である島根県には少ないというから面白い。長野県の安曇野市は、≪道祖神≫の宝庫として有名で、≪道祖神≫巡りをしている人が有ると聞くが、是非皆さんも地元にある≪道祖神≫の起源や意味を調べてみるのも、地元を見直す良いきっかけになるのではないだろうか?

道祖.JPG 091115_124720.JPG 

 

 

 

 

<路傍で見つけ道祖神とすっかり紅葉が終わった車窓の風景>

2、3日前のテレビでガッツ石松が、例の≪OK牧場の決闘≫を連呼していたので気になって調べてみると、偶然今から128年前の今日10月26日に起きた出来事であることが判った。この≪OK牧場の決闘≫(Gunfight at the O.K. Corral)またはOKコラルの決闘は、1881年10月26日アリゾナ州トゥームストーンのO.K.コラル近くの路上で起こったワイアット・アープとドク・ホリデイ派とクラントン一家との銃撃戦の事である。

この事件に基づいた1957年ジョン・スタージェス監督作品の映画≪OK牧場の決斗Gunfight at the O.K. Corral の邦題により、「OK牧場の決闘」という訳が広まったが、直訳すれば「OKコラルの銃撃戦」となる。コラルとは、家畜の囲いを意味し、牧場の畜舎を指すこともあるが、ここでは、貸し馬や馬を預かったりするこの時代特有の商売所だったようだ。ワイアット・アープ(映画ではバート・ランカスター)、ドク・ホリディ(同カーク・ダグラス)らを始めとする市保安官たちと、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズが4対7で、撃ち合った。

尚、ここでの「カウボーイズ」とは、この時代のこの地方特有の特殊用語で、「悪い牧童」と言う意味である。牛飼いや牧童であるが、同時に牛泥棒でもあった。実はこの出来事は、カウボーイズらのカウンティ党(民主党支持)と、アープ組の法と秩序党(共和党支持)の対立が直接的な原因だそうだ。それは1880年10月、カーリー・ビルによるフレッド・ホワイト保安官殺害事件となり、両陣営の亀裂が発端になったと言われている。

ところで、昨日の神奈川・静岡での参議院補欠選挙で、民主党公認の金子・土田両氏が当選したそうだ。来年の夏には、参議院選挙が行われる。果たしてこの決闘は、どちらが制するのだろうか?

kirkouglas5.JPG      <左/ドック・ホリディ役のカーク・ダグラスと右/ワイアット・アープ役のバート・ランカスター>