Category: 歴史

1683(天和3)年の今日この日、鈴ヶ森刑場にて≪八百屋お七≫が3日間の市中引回しの上、火あぶりの刑に処せられ。お七は前年12月28日の大火で一家がお寺に避難した折り、一人の男と出会い恋をした。やがて一家は再建された家に戻るが、男のことが忘れられずその思いが募って、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思い、放火をしたと伝えられている。この火事はすぐに消しとめられたが、お七は御用となってしまった。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が有り、町奉行がこれを適用しようとして、「お前の歳は15であろう?」と謎を掛けたが、彼女は正直に16歳であると答えた為、極刑に処せられたというエピソードが残っている。

<八百屋お七の墓:文京区の円城寺>

この話は、井原西鶴の浮世草子「好色五人女」や河竹黙阿弥などが脚色し、芝居や人形浄瑠璃によって日本の津々浦々まで知れ渡っていった。丙午(ひのえうま)生まれの女子が疎まれるようになったのは、お七が丙午の年の生まれであったことからきている。問題は、お七の相手であるが、処刑から三年後に井原が書いた「好色五人女」の中では、その名を十六歳になる寺小姓の小野川吉三郎(又は生田庄之助ともと名付けたことから、お七の相手が吉三という具合に伝わっていった。

tokokuniokichi3_1.jpg 「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残り、現代では江戸が「火災都市」と呼ばれるほど、大火が頻発したという。大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。このように、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。又、 江戸の火事は祝融回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあったと言うから恐ろしい。

落語では、後日談としてお七が火あぶりになったのを悲観して恋の相手の吉三郎は川に身を投げて死に、二人が地獄で出会って手を取り合うとジューっという音がしたと結んでいる。その落ちは、お七は火で死に吉三郎は水で死んだので水と火が触れてジューっという音がしたということの他、お七の七と吉三郎の三とで十になるからだと聴いた記憶がある。

今日は、「カメラ発明記念日」だ。1839年の今日、フランス人のルイ・マンデ・ダゲールという人物が写真機を発明した。日本では江戸時代の天保10年で、徳川幕府成立から200年以上が経過したことによる幕藩体制のひずみが顕在化し、また欧米においては産業革命が推進され、有力な市場兼補給地として極東が見直され始めた頃と一致する。この写真機は「ダゲレオタイプ」と呼ばれ、長時間露光させるため写真機の前で長い間じっとしていなければならなかった。我々も江戸末期に撮られた写真を目にする機会がある。例えば、坂本龍馬(下の写真)や勝海舟の写真だ。

image.jpg坂本は、天保6年(1836年)に生まれて慶応3年(1867年)に暗殺されている。31歳で亡くなっている訳だが、その間に弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治と年号が移り変わり、彼が25歳から30歳の間に撮影したと仮定したら、文久から慶応年間の間だろうと思われる。このことから発明から30年を経たずしてカメラが日本に入って来ているのが分かる。カメラの語源は、ラテン語の「カメラ・オブスキュラ」で、カメラは「部屋」、オブスキュラは「暗い」という意味らしい。大昔のカメラは内部が真っ暗な箱に小さい孔を開けた簡単な構造のものだった。

レンズもついていなければ、フィルムもなく、小さな孔から差し込む光が、反対側の壁に物体の像を映し出すという、光のピンホール現象を利用したものだった。カメラ・オブスキュラは天体の観測や絵を描く道具として使われていたが、像を綺麗に映そうとすると像が暗くなるという問題があった。この問題はピンホールに凸レンズをつけることで解決され現在のカメラの原型になったのだ。今や長足の進歩を遂げたカメラは、デジタルカメラとなってフィルム不要で無限に撮れる時代となった。世界一のフィルムメーカーだったイーストマン・コダック社が、この程破綻した。私たち世代は、時代の流れに伴うデジタル機器の開発ペースに追いつけなくなってしまった。

今日、北朝鮮の金正日の国葬が行われたが、金日成同様遺体は完全保存されるそうだ。遺体の保存は、古代におけるミイラにまで遡るようだ。遺体の保存方法を通常、「エンバーミング」(embalming)と言って、その歴史は人類の歴史そのものである。日本語では死体防腐処理遺体衛生保全などという。長年火葬を禁止し、土葬が基本の欧米では、遺体から感染症らが蔓延することを防止する目的もあるが、火葬が基本の我が国では施す事は稀のようだ。アメリカには葬儀大学校というのが有って研究も進んでいるらしいが、急速に発展する契機となったのは、1860年代アメリカの南北戦争であるといわれている。

ネットで調べた処、 現代のエンバーミングは、具体的には以下の方法で行われているそうだ。

  1. 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。
  2. 遺体の表情を整え、必要に応じて髭を剃るなどの処理を行う。
  3. 遺体に少切開(主に頸部など)を施し、動脈より体内に防腐剤を注入。同時に静脈より血液を抜く。
  4. 腹部に約1cmの穴を開け、そこから鋼管を刺し胸腔・腹腔部に残った体液や、腐敗を起こしやすい消化器官内の残存物を吸引し除去する。また同時にそれらの部分にも防腐剤を注入する。
  5. 切開を施した部位を縫合し、事故などで損傷箇所がある場合はその部分の修復も行う。この時、切開を行った部分にはテープ等を貼り目立たなくする。
  6. 再度全身・毛髪を洗浄し、遺族より依頼のあった衣装を着せ、表情を整え直した上で納棺する。

 このような処理を行われた遺体は注入される防腐剤の濃度や量により数日~2週間程度までは常温での保存が可能だそうだ。又、これ以上に徹底した処理を行えば、保存可能期間を更に延長することができ、防腐剤の交換など定期的なメンテナンスを行えば、生前の姿のまま保存展示を実現することが可能だという。

Lenin.jpeg 453px-Mao_Zedong_portrait.jpeg image.jpeg otherphotoa30.jpegこのエンバーミングが施された有名な政治家は、レーニン(写真左)、スターリンホー・チ・ミン毛沢東(左から2番目)など社会主義国の宰相が多いが、アルジェンチンのエバ・ペロン(元女優で政治家)は例外である。政治家以外では、マリリン・モンロー(左から3番目)、テレサ・テン(1番右)、マイケル・ジャクソンなどが保存されているらしいが、日本人では俳優の松平健の奥さんだった松本友里さんも施したと聞いている。私がこの「エンバーミング」に付いて詳しいのは、訳が有る。

約20年近く前、当時川越に住んでいた長兄が深夜の会社帰りに轢き逃げで亡くなった際、班員捜査の為遺体の保存が必要となり、埼玉の防衛医科大学校病院でこの技術が施されたのだ。残念ながら犯人は検挙されなかったが、今回の北朝鮮の報道で当時の忌まわしき記憶がが蘇ってきた。

250px-COREDO01_2048.jpeg 180px-Shirokiya_Fire.jpeg2004年の3月にオープンしたその建物は、永代通り中央通りが交わる日本橋交差点に位置し、日本橋駅とも地下で直結していることから、『お江戸日本橋』の新しいランドマーク的な存在となっている。この地は以前、東急百貨店のルーツと言うべき「白木屋本店」が有った場所で、2000年代に入ってから「コレド日本橋」として日本橋エリアに於ける初めての大規模な再開発により新たなビルとして竣工した。、「日本橋三越」と並んで日本橋地区の有名デパートだった「白木屋」は、『乗っ取り』という城山三郎の小説の舞台にもなったが、今ではその名前を知る人も少なくなったろう。

79年前の昭和7年(1932年)の今日9月16日、開店直後の「白木屋」4階のオモチャ売る場から出火し、火はみるみる地上8階建ての4階以上の部分に燃え広がった。この火災は、12時過ぎに鎮火したが逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し500人余りが重軽傷を負ったそうだ。決死の覚悟で猛炎の中に飛び込んで行った消防隊員の指示で店員の女性達が次々にロープを伝って下に降りていったが、地上から吹き上げてくる風で和服の裾が乱れ、両手で握っていたロープから片手を離して裾を押さえたため支えきれず転落した女性が続出したという。

  syouwa1ki3.jpegこの事件以降、女性の洋装が増えズロースを着けるようになったというこの≪日本橋白木屋火災・・・ズロース伝説≫を、私は中学の授業で社会の先生から初めて教わったが、思春期とて当時大いに関心が有った事を憶えて居る。但し、この≪ズロース伝説≫は些か疑わしい。と言うのは、私の調べた限りでは、一般の女性がズロース(パンツ)を着けるようになったのは終戦後のことであり、当時は和装の女性が下着を着用することはなかった(所謂ノーパン)ようだ。真偽の程は判らないが、この歴史的≪日本橋白木屋火災・・・ズロース伝説≫についてご存じの方は、是非ご一報を! 

<写真左上は「コレド日本橋」、下は建設当時の地上8階地下2階の「白木屋」、右上は燃え盛る「白木屋」>

惚れた仕事に 命を掛けて 散るも華だよ 男なら

ryoryochanx-img600x450-1293513115g4dmv534348.jpeg怒涛逆巻く 嵐の中を 目指すは遥か 江戸の空

花の文左の みかん船 

この歌は1966年の第17回の紅白歌合戦で三波春夫が、トリで歌った『紀伊国屋文左衛門』の1番の歌詞である。紀伊国屋文左衛門は、我々商売人にとって師匠と思しき「商売の神様」なのだ。文左衛門は誰もが一度は名前を聞いた事が有る江戸時代の豪商で、特に嵐の中を船をかってみかんを江戸に運んだ話はつとに有名だ。「経営の神様」といわれた同じ和歌山県出身の松下幸之助も、先輩として崇めたてまつり、墓所の勝楽寺に立派な石碑を建立している。

文左衛門は、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたと伝えられている。その時得た5万両(江戸初期だから1両=7万円前後?)を元手に、文左衛門は江戸の本八丁堀3丁目に居を構え、幼さない頃から目指していた材木問屋を始めた。当時風が強かった江戸は、しょっちゅう火事が起こり10年経つと江戸の町が全て焼失するほど燃えてしまうのだ。16978年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀と結びついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負う程になっていた。

4b51a53db68db87a94155913d6d268b5.jpegこうした材木の事業は巨利を生み、当時奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽(だいじん)と言われ、その話題が話題を呼んで商売も隆盛を極めた。しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなり、更に深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711~16)材木商を廃業した。その後は、深川八幡(江東区)に閑居し、宝井基角らの俳人と交流を深め俳句を詠んで悠々自適に暮らし、66歳で天寿を全うしたと伝えられている。

商売人としては、「太く長く生きた」何と素晴らしい人生だろうか!尚、食料品や「紀伊国屋」や「紀伊国屋書店」は、文左衛門とは縁もゆかりもない事を此処に付け加える。