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2014年1月20日(月)≪「小野田少尉 遅すぎた帰還」・・・そして小野田は鈴木の元に旅立った≫

『旧日本軍の陸軍少尉・小野田寛郎中村獅童)は太平洋戦争終結後も終戦を知らないまま、部下の赤津勇一陸軍一等兵(1950年6月投降)、島田庄一陸軍伍長柳葉敏郎/1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵西島俊秀/1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共にフィリピン・ルバング島のジャングルの中でゲリラ戦を戦い続けてきた。やがて、部下の戦死?により小野田は一人残されるが、本国からの救出隊が出向いてきても、帰還命令の書式が違うため、敵の陽動作戦だと思い帰還命令には従わない。しかし、日本から小野田を探しに来た冒険家・鈴木紀夫(今を時めく堺雅人)と遭遇したことがきっかけで、1974年3月10日、小野田はルバング島での諜報活動を終え、終戦から30年を経て同12日に祖国に帰還する。(ウキペディア参照)』これは、2005年8月13日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』のあらすじである。

この物語をご覧になった方も多いと思うが、まさに「事実は小説より奇なり」である。私は、投降時にフィリピン軍司令官に軍刀を差し出す様子を驚きの眼差しで3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」を食い入るように見た憶えがある。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われるが、フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返している。小野田の投稿式には当時のマルコス大統領も出席し、フィリピン軍に対する反抗の罪を一統許すと同時に、司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と称えたという。小野田は、帰国後妻を娶るが日本を離れて次兄の住むブラジルに渡り牧場経営に成功するが、『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾財団法人『小野田自然塾』を茨城県に開校し、若者育成のためブラジルと日本を往復する生活を送った。img_45893_11733649_0

img_1505084_21983679_120101006213400bf1数奇な運命を辿って91歳で逝った彼の死を聞いて改めて気になったのが、小野田がジャングルから出てくる決心をさせた鈴木紀夫氏(右)の事である。鈴木は20歳の時、ヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至る放浪の旅に出る。1972年12月一時帰国し、太平洋戦争終結後も、終戦を信じずに帝国軍人としてゲリラ活動を展開していた残留日本兵の小野田寛郎に逢うため、フィリピン・ルバング島に向かったのだ。その後、1986年11月ヒマラヤの類人猿発見のために行ったヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難が確認され、翌年の10月に死体が発見された。享年38歳だった。小野田は鈴木の死を聞き、「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語っている。小野田は慰霊のためにヒマラヤを1度訪れているが、今頃天国で遭遇した二人は何を語り合っているのだろうか?