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2014年12月1日(月) ≪サントリーとニッカ≫

NHKの朝の連続ドラマ小説が好調のようだ。現在放送しているドラマは『マッサン』、放送開始から連続で平均視聴率20%を キープしているそうだ。今回の『マッサン』は連続ドラマ小説史上初めて純外国人をヒロインとして抜擢して話題を呼んだ。『マッサン』は明治から大正にかけてウイスキーづくりに情熱をかけた 男(亀山政春)と医者の娘である妻(亀山エリー)の物語だ。大阪弁を話す気品あふれるスコットランド人の妻と夢を追いかける不器用な日本男児の人情喜劇が多くの 人を魅了するのだろう。このドラマのモデルになっているのが、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏とその妻である竹鶴リタである。竹鶴政孝は後年、後の英国首相ヒューム氏に『万年筆1本で我が国のウイスキーの秘密を盗んで行った青年がいた』と言わしめた男である。(下の左の写真は政孝にウイスキーのノウハウを教えた技術者。右は政孝とリタ)無題

マッサンの由来は、流暢な関西弁を操るま でになったが『マサタカサン』という発音が難しかったため、旦那のことを『マッサン』と呼んだことから来ているという。竹を山、鶴を亀に読み替えた妙だが、政孝の生家はドラマの設定どおり広島県竹原市の造り酒屋で「竹鶴酒造」(ドラマでは「亀山酒蔵」))というそうだ。「竹鶴酒造」は現在でも広島県竹原市に現存しており(広島県竹原市本町3-10-29、JR竹原駅徒歩15分)、その歴史ある建物は竹原の伝統的な町並みに溶け込んでいルと聞く。分家に生まれたにも拘わらず本家に入って酒造業を継いだ厳格な父・敬次郎の背中を見て育った三男坊の政孝は、家業を継ぐため大阪高等工業学校(現在の国立大阪大学)の醸造科に進学し、ウイスキーの魅力に取り付かれるのだ。

そして、卒業を待たずに就職したのが大阪の「摂津酒造」(ドラマでは西川きよしが社長を演じる「住吉酒造」)である。当時摂津酒造はアルコール蒸溜業最大手で、日本で初めてのウイスキーづくりを実現したいという野望を持っていたため政孝をスコットランドに留学させ、ウイスキーづくりの基礎をみっちり学ばせたのである。政孝が帰国する際に伴ったのが妻のリタ(エリー)当時23歳11か月で、リタは両親の反対を押し切って未知の国日本に降り立った。政孝がリタに「スコットランドに残っても構わない」打ち明けたのに対し、「私はあなたの夢を共にお手伝いしたいのです」と伝えたというのもドラマ通りだという。そして『マッサン』にはもう一人ドラマを構成する重要な人物が登場する。『やってみなはれ!』が口癖の堤真一演じる「鴨居商店」社長の「鴨居欣次郎」だ。

「鴨井商店」は、「寿屋」(後のサントリー)の前身の「鳥井商店」で、「鴨居欣次郎」はサントリーの創設者「鳥井信治郎」(若き日の鳥井と後年の鳥井/本物のポートワインのポスター)である。因みにサントリーホールの生みの親で元サントリー会長佐治敬三氏(母方の縁者と養子縁組)は、鳥井信次郎の次男である。資金繰りに行き詰まった「摂津酒造」を退職した政孝は、寿屋の鳥井信治郎にスカウトされ、国産第一号蒸留所となる山崎蒸溜所の建設に関わりで1929年に国産第一号ウイスキー「白札」を完成させる。しかし、本場スコットランドの製法にこだわる政孝と、日本人向けに味を変えたい鳥井との間に意見の食い違いが発生する。政孝は自分を拾ってくれた鳥井に恩義を感じていたもの の、当初の契約通り寿屋を10年間勤め上げて退社し理想のウイスキーづくりを求めて妻リタと共に北海道余市へと渡るのだ。スクリーンショット-2014-10-06-8.03.35presi2hqdefault

鴨井商店が販売している『太陽ワイン』は、今も売られている?『赤玉ポートワイン』のことだ。話は逸れるが、『赤玉ポートワイン』には或る思い出が有る。私が東京に来る直前の中学2年の修学旅行で宮崎に行った際、私を好いてくれていた花田満知子という同級生の女の子が、私が好きなことを知っていて『赤玉ポートワイン』のミニサイズ「ビールの小瓶くらいの大きさ)で「キャッシー」を、私の為にこっそり荷物に忍ばせて持って来てくれたのだ。「キャシー」と言う名前は、当時「寿屋」がスポンサーだったアメリカの「パパは何でも知っている」というホームドラマの中の末娘の名前である。花田さんは、スタイルが良くて愛くるしい顔をした女の子だったが、残念ながら親父の転勤で縁が切れてしまった。

政孝と鳥井の二人のウイスキーづくりに対する考え方の違いは、そのまま「ニッカ」と「サントリー」という二大ライバル企業の関係へと発展していく事になるのである。ドラマでは、ローラベッキーなどのタレント候補者を押しのけてエリーの役を射止めたシャーロット・ケイト・フォックスさんの可愛い笑顔と親しみやすさが評判を呼んでいる。ドラマ同様、日本人以上に日本人らしく夫を支えていたリタだったが、昭和15年以降は、戦争のためスパイ容疑をかけられるなど、つらいことも多かったようだ。結婚と 同時に英国から日本に帰化していたとはいえ、「鬼畜米英」が合言葉だった時代には「アメリカ!アメリカ!」と子供たちによくはやしたてられ、「この鼻を削 りたい。この目の色も髪の色も日本人と同じように黒くしたい」と嘆いたそうだ。p1190400

yoichi_b1_8もともと体があまり丈夫でなかったリタは、64歳の誕生日を迎えた、わずか1ヶ月後の昭和36年1月17日、政孝に看取られ永眠した。「リタがついにこうなってしまったよ」弱音をはいたことのない政孝(”マッサン”)が、この時ばかりは二日間泣き通し、葬式の準備を息子(子供が出来なかったため姉の子養子にした)の威(たけし)に任せたまま部屋に閉じこもり、火葬場にも行かなかったそうだ。リタの墓は、余市蒸溜所「写真)を見下ろす美園町の墓地に建てられ政孝はその時、自分の名前も一緒に刻んだという。そしてその墓石には、政孝が亡くなった1989年8月29日の日付が、後に刻み加えられたのである。今年は、「ニッカウヰスキー」が誕生して80周年を迎えるそうだ。今宵は、サントリーと飲み比べながらじっくりと芳醇なニッカのウイスキーの味を楽しみたいと思う。