Archive: 2012年2月

表題を直訳すると、≪4年ごとに「leap day」を加えること≫となる。即ち、閏(うるう)日の事を英語で「leap day」というらしい。leap=飛ぶ、跳ぶの意味が有る事は知っていたが、それが4年毎に跳ぶ?ため「leap day」となったのだろう。閏年は、1年の日数が365日ではなく365.242199日なので、そのずれを調整する為である。これは、ローマ教皇グレゴリウス13世が暦を研究し1582年に定めた為、【グレゴリオ暦】と命名され、現在世界各国で採用されている。

guregorio.jpg               <イタリア・サンピエトロ大聖堂のグレゴリオス13世の記念碑>

【グレゴリオ暦】の法則に依れば、西暦年が4で割り切れる年は閏年だが、100で割り切れ、かつ、400で割りきれない年は閏日を入れない平年になる。従って、西暦2200年は閏年ではない。要するに、400年間では閏年は97回しかないのである。嘗てイギリスでは、4年間のうちでこの日だけ女性から男性へのプロポーズが伝統的に公認され、男性はそれを断わることはできないとされていた。きっと(私のような?)もてる男は、4年に1度は家に閉じこもって息を潜めていただろうが、携帯電話が普及した現代はそうもいかないだろう。

何れにせよ商売人に取って閏年は一日分売上が増える訳だから、"WELL COME!"である。また、閏年は夏季オリンピックが開催される年で、しばしば「オリンピックイヤー」という呼称が使われる。今年は「ロンドンオリンピック」が、7月27日から開催される予定だが私たちスポーツファンにとって" leap year "は、大いに楽しみな年でもあると言う訳だ。

経営再建中の半導体大手エルピーダメモリが27日、会社更生法の適用を申請し事実上倒産した。負債総額は約4480億円だそうだ。同社は半導体メモリー「DRAM」の専業メーカーで、NEC日立製作所のDRAM事業部門が統合し、2000年に現在の会社の形になった。さらに三菱電機の同部門も合流し、日本のDRAM製造を代表するメーカーとなった。しかし海外勢、特に韓国メーカーとの競争や商品価格の下落、さらに円高で業績が急降下。米マイクロン・テクノロジーや台湾メーカーとの資本業務提携などで生き残りを模索していたが、交渉が不調に終わり、自主再建を断念した模様だ。

9111.jpg ここにきて、パナソニックを始め日本の電機メーカーの不振が目立つ。特に薄型テレビや白物家電の生産を柱としてきたメーカーの決算予想は悲惨だ。「亀山モデル」で名を馳せたシャープ、円高による太陽電池事業の下振れや、国内テレビ、携帯電話事業、液晶パネル事業という3大事業(総売上の60%)が悪化し過去最悪の赤字額となる見通しだ。この分野でのサムスンを中心とした韓国勢の台頭は著しく、一度撤退した薄型テレビの日本への再進出も視野に入れてるようだ。過去韓国メーカーが日本進出を目論んで失敗(成功していない)したものに、自動車や我々建機レンタル業者が主たる商品としている油圧ショベルが有る。

 

 約10数年前に安価な韓国製の油圧ショベルが年間600台前後輸入された年が有ったが、油漏れが頻発しその後が続かなかった。特にその辺を懸念して日本在住の韓国人の土建屋さんが、韓国製を購入しなかったのである。しかし今は、現代(ひゅんだい)がスウェーデンのボルボ社と提携し、ボルボのブランドで油圧ショベルを製作し、世界に輸出し始めた。韓国製の自動車も今や、アメリカやヨーロッパを席巻しつつある。国産より安価であれば、いずれ我が国にも再上陸するだろうし、それ以前に日本のメーカーが保持し続けた輸出市場を駆逐される。

 

今私は、ドコモの携帯電話をスマートフォンに変えようと思い研究している。しかし絶対に韓国製のギャラクシーを手に入れようとは思わない。嘗て日本産業のグローバル化の先駆けになってきたのは、電気製品や自動車を始めとする製造業だった。世界中に拠点を築き上げ,市場ごとにその市場に最適となる商品を生み出すのも日本メーカーのお家芸だった。それは日本のメーカーが国内市場にとらわれず,大規模かつ緻密なマーケティング戦略をもっていたからこそできたものだ。それはやがて"ジャパン アズ ナンバーワン"の栄光や"メイドインジャパン"の誇りを生み出しのである。

 

今こそ、日本の再生のために ≪日本製を使おう!≫ではないか。 

第84回米アカデミー賞の助演男優賞は、現在公開中の「人生はビギナーズ」で、75歳にしてゲイだとカミングアウトする驚きのおじいちゃん役を演じたクリストファー・プラマーが受賞したとの報が入った。初めてオスカー像を手にする彼は現在82歳、俳優部門では史上最高齢での受賞となった。クリストファー・プラマーと言えば、我々の年代で印象強く残っているのは、アカデミー賞受賞作品のミュージカル、「サウンド・オブ・ミュージック」(1961年)のトラップ大佐役だろう。

オーストリア海軍の英雄で、1927年にマリーア・クチェラ(映画ではジュリー・アンドリュースが演じた)と結婚し、亡くなった前妻アガーテの子供たちとマリーアの子供たちでトラップ・ファミリー合唱団を結成して有名になったトラップ大佐を見事に演じ切ったのだ。以降、不気味な犯罪者を演じた事を切っ掛けにある時期から多数の作品で悪役をはじめ幅広い役柄を演じた。そいて2009年の「終着駅 トルストイ最後の旅」が意外にもオスカー初ノミネートとなり、今回初受賞の運びとなったのである。

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    【左から若かりし頃のクリストファー・プラマーと現在の彼。右は同年代のショーン・コネリー】

カナダ出身の彼の曾祖父は、カナダの第3代首相ジョン・アボットである。所謂、名門出身のプラマーは最初ピアニストを目指したらしい。私にとってプラマーはヨーロッパ人の香りがする、好きな俳優の一人である。実は私が若い頃、彼をイギリス人かフランス系のヨーロッパ人と信じ込んでいた。同年代の好きな俳優に81歳のショーン・コネリーが居るが、彼はいち早く1987年の「アンタッチャブル」で同じアカデミー賞の助演男優賞を受賞している。最近ショーンがスクリーンに登場しないだけに、クリストファーの最高齢での受賞は、私にとってご同慶の至りである。

「船中八策」(せんちゅうはっさく)は、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が、慶応3年(1867年)に前土佐藩主の山内容堂に対して大政奉還を進言するため藩船の夕顔丸で長崎を出航した際、その船上で後藤象二郎に対して提示した新国家体制の基本方針を海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、後に成文化したものである。現存していないが、内容を現代風に訳すと次の通りとなる。

1、政権を朝廷に返すこと
1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行う こと
1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと
1、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること
1、外国と新たに平等な条約を結び直すこと
1、海軍の力を強めること
1、親兵を設けて都を守ること
1、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること

龍馬は同年11月に同士の中岡慎太郎とともに暗殺されたが、時の将軍徳川慶喜の大政奉還により「船中八策」は一部実を結び、そのまま新政府に引き継がれ我が国の近代化の礎となった教えである。これに倣い、橋下徹大阪市長が率いる地域政党「大阪維新の会」が、次期衆院選の公約として策定したのが、「維新版・船中八策」即ち『維新八策』である。示された骨子の全文は次の通りだが、表題は、「日本再生のためのグレートリセット」「これまでの社会システムをリセット、そして再構築」となっている。

main.jpg1、決定でき、責任を負う民主主義

1、決定でき、責任を負う統治機構

1、自立する個人

1、自立する地域

1、自立する国家

1、日本の一人勝ちの時代は終わった

1、今の日本のレベルを維持するには国民総努力が必要

1、国全体でのオペレーションから個々の創意工夫による活性化

これに際し橋本市長は、「給付型公約から改革型公約へ~今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」と方向性を示している。「維新の会」は大阪府議会や大阪、堺両市議会の所属議員らで協議を進めており、今月末の全体会議で細部を詰める予定だ。面白い事に、民主党の鳩山由紀夫が『具体性に欠ける』と批判したのに対し、鳩山と中が良いとされる小沢一郎が『人気が出る所以』と評価した事だ。この勝負私の裁定では、首相時代無策だった軟弱鳩山より、剛腕小沢に軍配を上げたいと思う。

 

120223_090443.JPG 120223_090600.JPG我が社は250台近くのダンプトラックを中心とした車輌を保有しているが、今年導入した車輌からご覧の様なラインを入れる事にした。今余りレンタカーを突飛なカラーにするのは流行らないが、ラインを入れるのにはそれなりの理由が有る。理由の一つは、盗難防止である。実は昨年暮れと今年に入って1月の上旬に、立て続けに4㌧ダンプが茨城県で稼働中に盗まれた。同業者の或る社長に相談した処、「うちのレンタカーはキャブをオレンジに塗っているので、未だ嘗て一度も盗まれたことは無いよ!」との答えが返ってきた。その会社も最近車輌盗難事件が頻発している茨城県に営業所が有るが、盗まれた事が無いと言う。

それがヒントになって、少し目立つように工夫するため我が社のカンパニー・カラーの赤と青のラインをキャブの側面に引いて見ようと考えたのだ。もう一つの理由が、目立つ車だとお客さんも安全運転を心掛けるだろうし、駐車違反も減少すると思う。車輌が増えると勢い交通事故や駐車違反が増えて来る。休みの日に我が社の2㌧ダンプでパチンコ屋に行き、パチンコ屋の駐車場で事故を起こし保険で補ってくれと言ってきた不届き者も居た位だ。3月に納車される予定の4㌧ダンプは、盗まれやすいのでキャブの前面もカッコよくラインを入れてみようと考えている。

最初は、横に地面と平行に赤と青夫々9cm幅で引いて見ようと考えたが、余りにも能が無いと考え試行錯誤を繰り返した末に、このデザインにになったのだ。何だか「ナイキ」のマークに似ているようだが、決して真似した訳ではない。カッティングシートを何時もお願いする文字書き専門の業者さんに頼んでやって貰ったが、このデザインを皆さんがどう評価されるか?是非聞きたいところである。

768d87f957ec70420e3eeed9de4ba533.JPG 寒い冬に食べる「おでん」は、格別に美味しい。日本記念日協会によると、今日2月22日は「おでんの日」だそうだ。記念日の由来を調べてみると、"「クチこみラジオ越後じまんず」というラジオ放送が制定した事が判った。新潟のおでんをPRするとともに、オリジナルおでんの開発や全国おでん合戦開催などをおこなっているらしい。アツアツのおでんを「ふーふーふー」と息を吹きかけて食べることから、2(ふー)と22(ふーふー)の2月22日を記念日にしたという。おでんは、「御田」と書き室町時代に世に出た田楽が原型となっている。焼いたものと煮たものがあるが、煮込んだ田楽を総称して女房言葉で「おでん」と言ったようで、一般にもその名称が広まったようだ。

冒頭の画像は、西川祐信画の『百人女郎品定』に描かれている田楽屋の風景である。天明2年(1782年)に刊行された豆腐料理の調理方法を解説した料理本『豆腐百珍』によると、どこの家庭でも作られている豆腐料理の定番が、味噌田楽だった。江戸時代、煮込み田楽は上方(関西)では種を昆布だしの中で温め、甘味噌をつけて出していたが、江戸では、近郊の銚子野田で濃口醤油の醸造が盛んになったため、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛く色の濃い汁で煮込んだ「おでん」が作られるようになった。

江戸で発達したおでんは上方にも伝わっていったが、上方では本来の「田楽」を守っていたため、それと区別するために「関東炊き/関東煮」(かんとだき)と呼ばれ、つい最近までおでんのことは「関東煮」で通っていたようだ。今、「おでん」はコンビニの冬の定番商品になりつつある。 テレビのドキュメンタリーで観たが、コンビニ自体が農園を保有し野菜を栽培しているらしい。あの美味しい大根、植え付けから栽培、刈り取り、切り揃えまで殆ど機械に頼っているのには驚いてしまった!(*^_^*)

 

裁判所には、いろいろなことの判断を求めているんだ。裁判所は僕を判断する立場だけれども、社会から評価を受ける立場でもある。僕の刑が決まるだけじゃなく、これからのこの国の裁判の参考基準を示すことになるだろうから、何十年もの批判に耐える、しっかりした判決文を書いてほしい。そうしてもらえれば、僕も幸いだよ」。正鵠をついたこの言葉は、昨日山口県光市の母子殺害事件で殺人や強姦致死罪での差し戻し控訴審で「死刑判決」を受けた犯行当時18歳と30日だった元少年(30)が、面会した記者に漏らしたものである。

死刑が確定し、再び彼が娑婆に戻る事が無くなったのだた為、昨日のテレビでは実名で報道されていた。男なら誰もが一度は、自分が「死刑」を宣告されたらどうなるだろうと考えた事が有ると思う。また昨年だったと思うが、『絞首刑』の刑場に初めてテレビカメラが入り、恐ろしくも克明に報道され画面に見入った事が有った。「死刑」は一種の殺人だとして、「死刑廃止論」も或る程度支持されているし、私もそちらの意見に傾きつつある。しかし、私が事件から13年間戦い続けて来た本村洋さんの立場だったら、犯人がニ度と出て来ないようにと「死刑」を望む事だろう。

我が国の刑法では、「死刑」に次いで重い罪は「無期懲役刑」だ。無期懲役とは、文字通り期限を定めない懲役刑の事だが、無期懲役は模範囚だと大体14年~20年程度で仮釈放になる公算が高いと聞く。決して刑が終了している訳ではないが、所謂懲役刑が加害者の"更生と社会復帰"を前提としているから出てこれるのだ。我が国には、アメリカの映画で見る事が有る「終身刑」、即ち「一生刑務所で過ごす」という刑がない。生命を奪う死刑に対して、一説には受刑者の社会的生命を奪う「社会的死刑」と言われることも有り、当然無期懲役よりも重い刑である。

一生檻の中で過ごすため、死刑より或る意味終身刑はかなりきつい罪だと言えよう。従って、途中で死刑にして欲しいと願う人が多いと聞く。若しあなたが大罪を犯し罪を購うとしたら、≪「死刑」と「終身刑」、どちらを選びますか?≫

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      <珍しくも我が家の庭のつくばいに落ちる筧の水が凍ってしまった>

A tomato a day keeps the doctor away.」、直訳すると「1日1個のトマトは医者を遠ざける」、即ち、毎日トマトを食べることで医者要らなくなるという意味だ。更に、諺として日本語にすると≪「トマトが赤くなると医者が青くなる」≫となる。血液中の脂肪増加を抑える新成分がトマトに含まれていることを、京都大大学院河田照雄教授らの研究グループが発見し、10日付の米科学誌プロス・ワンで発表した。マウスを使った実験で、血液などの中性脂肪量を抑制することが確認されたためで、報道された途端メタボリック症候群の人々が買いに走り、トマトやトマトジュースが一時的に店頭から消えたらしい。

MDQwMzA44qGBQINng32DZ4FAkLaW8iAwMTOUKg.jpg私は野菜の中でトマトが一番好きである。何故なら、取りたてのトマトはみずみずしく浴びた太陽の味がするからfだ。子供時代におやつ代わりにかじったトマトは、特に美味しかった。元々、南米のアンデス山脈の高原地帯(ペルー、エクアドル)原産のナス科ナス属の植物である。日本には江戸時代の寛文年間に長崎へ伝わったのが最初とされる。青臭く、また真っ赤な色が敬遠され、当時は観賞用で「唐柿(とうし)」、赤茄子(あかなす)、蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)等と呼ばれていたらしい。

日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからである。因みに、アメリカで最初に遺伝子組み換え作物の認可を受けたのはトマトである。身体に良い食物ということは以前から意識していたが、些か今回の発表に対して疑義がある。何故なら、私は毎朝トマトジュースを欠かさないし、夕食には必ずトマトのサラダが食卓を飾る。しかし、私は数年前からメタボリック症候群の仲間入りをしてるのだ。但し、私の体重が減らないのは、私が食べたり飲んだりする量が多すぎて、トマトに依る中性脂肪量の抑制が追いつかないのかもしれない?(--〆)

今日2月17日は、「天使の囁きの日」です。あなたは、その事をご存知でしたか?"天使の囁き"とは、氷点下20度位になると空気中の水蒸気とダストが合体し凍りつき、そこに光が当たるとキラキラ輝く、ダイヤモンドダストのことである。北海道幌加内町の「天使の囁きを聴く会」が1994(平成6)年に制定したもので、1978(昭和53)年2月17日、北海道幌加内町母子里の北大演習林で氷点下41.2℃という最低気温が記録された事に由来する。1987(昭和62)年から毎年、この時期には「天使のささやきを聴く集い」というイベントが開催され、寒さの体験・各種レクリエーション・ダイヤモンドダスト観察などが行われているそうだ。

original.jpg何とも可愛らしい呼び方であるが、天使という言葉を使うケースは海外では結構あるようだ。例えば欧米では、ふっと会話が途切れる瞬間の事を「天使が通り過ぎた時間」と呼ぶそうだ。アイルランドでは、「眠っている子どもが笑うのは、その子が天使とお話しをしているからだ」と言われている。又、フランスでは、「子どもの寝息は、天使がラッパを吹いている音」という言い方があるそうだ。そしてアメリカでは、切り分けたケーキが最後の一切れになったとき、「さあ、天使のためにこれはとっておきましょう」と言って、お母さんが片付けてしまうことがあるという。

これはきっと、夜中に男女2人の天使?が仲良く半分づつ食べるのではないでしょうか?・・・

slideshow_4.jpg昨日某建設機械販売商社の"感謝の夕べ"が、≪ザ・プリンス パークタワー東京≫(写真)が夕方5時から開催された。大阪の本社から85歳の会長が見えられて、関東地区で取引がある建設機械レンタル会社約50~60社が招待され豪華な夕食会が催されたのだ。ここは以前、 芝ゴルフ練習場が有った場所で、2005年に新たに「東京プリンスホテル パークタワー」として開業したが、その後今の名前に改称された。初めてこのホテルに足を踏み入れたが、33階の宴会場からの眺めは素晴らしく、そぼ降る雨の中に輝く東京の街が一望できて最高の気分だった。

『プリンスホテル』の名前の由来は、コクド・西武鉄道の創業者である堤康次郎(1964年に逝去)の遺志を引き継いだ三男・堤義明が、敗戦に伴い行われた皇籍離脱後相続税が払えなくなった旧皇族の方々の土地を買いあさりホテル業を、開業した事に端を発している。借金に借金を重ねて海外を含むホテルチェーンを大きくしてきた西武グループも、次第に陰りが見え始め2006年前半に西武ホールディングスの元で西武グループが再編される際に、不採算施設については順次売却し、現在残るホテル・リゾート事業の不動産については「(二代目・新)株式会社プリンスホテル」のもとに集約・統合された。

更に2007年4月からプリンスホテルは、グレードに応じた3つのカテゴリーに分かれ、ブランドマークやサービスを一新したのだ。

一番上のランクが<ザ・プリンス コレクション>で、プリンスホテルのフラッグシップ(旗艦)・ホテルだ。ハワイの「マウナケアビーチホテル」と国内の四つの「ザ・プリンス」が該当する。その4つとは、今回私が行った「 ザ・プリンス パークタワー東京」、ザ・プリンス さくらタワー東京ザ・プリンス箱根ザ・プリンス軽井沢である。

その下が、<グランドプリンスホテル>と呼ばれるホテルで、グランドプリンスホテル赤坂グランドプリンスホテル高輪グランドプリンスホテル新高輪グランドプリンスホテル京都グランドプリンスホテル広島の五つだ。

その他が、従来の<プリンスホテル>と呼ばれるホテル群である。

しかし、そのような区分をしたにも拘わらず外国のホテルの日本進出が加速する中、プリンスHグループが過去持ち合わせて居たステータスが衰え始めた感が否めない。日本人としては、帝国ホテルホテルオークラニューオオタニ同様プリンスホテルも我が国の高級ホテルとしての地位を維持し続けて貰いたいものである。 

250px-NyakuichiJinjyaTairanoKiyomori.jpgNHKの大河ドラマを数年来観ている事は前にも書いた。今年は、松山ケンイチ(26)主演の「平清盛」だが、アメリカに行って観ることが出来なかった第5話以外は、今回も全て観ている。しかし、12日に放送され第6話の、平均視聴率が13・3%(関東地区)だったことが13日、判明した。初回17・3%で初回視聴率歴代ワースト3位でスタートした同作は、兵庫県知事、広島県知事などの発言などで話題を集めたものの、第2回以降は第4話迄が同じく17%代、第5話は16・0%と推移していたが、第6話で一気に15%をも割り込み、前回より2・7%と大幅に下落したという。6話までの平均視聴率も16・6%と史上最低らしい。

大河50周年の記念作となる本作の脚本は、NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」(07年放送)などを手掛けた藤本有紀氏が書き下ろしたもので、王家、貴族、武士が覇権を争っていた混迷の平安時代末期を舞台に、松山ケンイチ演じる平清盛(1118~1181年)の生涯と壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を描いた物語だ。但し、これ迄の松山ケンイチ『清盛』を見る限り、只の向う見ずな荒武者としか描かれておらず、何処にもこれと言って光るものが有るようには感じ取れない。

松山ケンイチという役者を私はよく知らないが、和製ジョニー・デップと言われる通り、役者としての資質をそれなりに持ち合わせていると聞いたことが有る。中学時代から棒高跳びをやっていて、身長180cm、体重60kgという体型も役者としては立派なものだ。但し、その触れこみもテレビの画面を見る限り、過去のもので今は太り気味でシャープさを感じ取ることができない。第一、演技が少し大袈裟過ぎる。1昨年の『坂本竜馬』の福山雅治も薄汚かったが、福山は爽やかで子供から年寄りまで嫌いな人が少ないタイプだったと思う。そして致命的なのは、松山が某宗教団体の信者という噂だ。

噂が本当かどうかは知らないが、世の中には"アンチ某宗教団体"の人も多いと思うので、事実なら余程の事が無い限り残念ながら視聴率のアップは望めないだろう。

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120207_133931.JPG 120207_151744.JPG プランテーション.jpg 画像 291.jpg 120207_145140.JPG 画像 285.jpg

左上:ミシシッピー川、中上:倉庫に描かれた絵、右上:或るプランテーション(大規模農園)の入り口、左下:プランテーションの中で説明する女性、中下:スペイン広場の噴水の後ろにミシシッピー川が広がる、右下:洪水の被害を防ぐため地上に建てられたお墓>

アメリカに今回行ってみて、改めて日本との違いに驚いた事や戸惑った事が幾つか有った。初めての訪米ではないが、今回特に感じた事を此処に記してみよう。

浪費社会アメリカ・・・ホテルの部屋に入ったら全ての電気が煌々と点いていた。節電が叫ばれている日本では考えられない光景だ。食べ物も目いっぱいよそってくれるが、全員が完食するとは思えない。余った食べ物を捨てる事に何の抵抗もないようだ。現地で長い日本人に聞いてみたところ、「リーマンショック」後は、ガソリンを節約して小さな車に買い換える人が続出したが、"喉元過ぎれば熱さを忘れる"で、又GM等の大型車が売れ始めたそうだ。又、一説によると「湾岸戦争」は古くなった砲弾を使うためだと或るアメリカ人が実しやかに言っていたのには驚いた。

汚いアメリカを実感・・・今の日本では少なくなったタバコのポイ捨ては当たり前のようだ。私が飲みかけのコーヒーの紙コップを捨てようと思い、ダストボックスの側で躊躇しているとアテンドしてくれた三橋氏がそのまま放り込んでいいと言う。『でも未だ中にコーヒー残っているんだ』と言っても、「片付ける人達の仕事を作るんだからいいんです」という答えが返ってきて驚いてしまった。

車社会アメリカ・・・広い道路でも横断歩道が殆ど見当たらない。ニューオリンズだからかもしれないが、街中以外は殆ど歩いている人を見かけない。アメリカは車社会だと実感したが、日本では道を渡るとき、"右見て、左見て"だが、アメリカでは、"左見て、右見て"だから尚更危険極まりないのだ。

チップが面倒なアメリカ・・・これは来る前から知っていた事だが、何事もチップなのだ。給料が少ないから、サービス業に従事している人の殆どが給料よりチップに実入りが多いという。カードで食事代を支払う際も、チップの欄に10~15%程度のチップ額を記入するかチップの分だけ現金を置かなければならないようだ。チップの習慣が無い日本は、何と良い国だろうかと改めて実感した1週間だった。

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:ジャズのライブハウスは、方々に有る、:レストラン【ペリカン・クラブ】ペリカンはルイジアナ州の鳥だそうだ、:最終日のパーティはマルディグラのフロートが保管されている倉庫の中だった>

 太っちょが多いアメリカ・・・よく食べるせいか太った人が多い。特に中年を過ぎたアメリカ人女性の多くが日本人では考えられないような大きなお尻をしている。南部の特性かも知れないが、パーティで話した英国人女性も驚いていたので間違いなくアメリカ人女性は、太った人が多いようだ。

アメリカ人全員がアイホン?・・・アメリカに行ってみて、アイ(スマート)ホン以外を持っている人に出くわさなかった。流石アップルの本場、至るところにアイホンの色んなカバーを売っている小さなショップが沢山あった。帰国し次第私も携帯電話をチェンジしようと思った次第だ。

韓国車が増えたアメリカ・・・走っている車の3台に1台は日本車だが、7~8台に1台は韓国製それもヒュンダイの「来るまである。ウオン安に乗じて安い韓国車がヨーロッパやアメリカを席巻しつつあるとは聞いていたが、以前と比べてこれ程とは!と実感した今回の訪米である。

陽気なアメリカ人・・・カーニバル週間に遭遇したせいか、何と言っても行き交う人全てが愛想がよく陽気だと感じた。昔、グレアム・グリーンの【静かなアメリカ人】The Quiet Americanという本を読んだ事が有るが、今回静かなアメリカ人にはついぞ行き遭わなかった。少なくとも南部のアメリカ人は陽気な人が多いのは間違いない。

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:街中の工事現場には、コマツ、コベルコ、CAT、ボルボの油圧ショベルが稼働していた、:南軍の英雄リー将軍、:ジャクソン広場には多くの芸術家が集合?>

クリスチーナ.JPG彼女名前はクリスチーンワ―(ウエアー?)マンChristine L. Wehrman)、100年以上の歴史を誇るAmerican Rental AssociationARA)のCEOである。背は左程高くはないものの、紺のスーツに絹のベストと白いブラウスからの覗くパールのネックレスと、同じパールのイヤリングが品よくマッチし、ブロンドと白い肌、そしてキラキラ光る青い目は威厳を含んでいた。名前からしてイギリスか北欧系と思われるが、ARAのレンタルショー(展示会)は、昼食会の彼女のスピーチから始まった。

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  <流石ニューオリンズ、入口でジャズバンドが迎えてくれる(写真左)>

我々4人、即ち全建リース協の角口会長、私、今回アテンドしてくれた住友リンクベルトのアメリカ駐在員三橋氏(写真)、そしてガイド兼通訳の山本しのぶさんは、彼女が喋る美しい英語に聞き耳を立てた。その後、数人がスピーチし、ARAの組織の中で昨年活躍された保険に携わる人や、大学生のための奨学基金に多額な寄付を行ったレンタル会社のオーナーの方々が表彰され、昼食会は予定通り2時間弱で終了した。

IHI.jpg kubota.jpg SAKAI.jpg タケウチ.jpg 

ARAのレンタルショーは、日本と違って(日本は機械化協会が主催)全米3000社以上が集まるレンタル業者の協会が主催するもので、主に小物機械が主流である。日本ではあまり見かけない、アミューズメント用具、バーベキューセット食器などのイベント製品が所狭しと並んでいるのが特徴だ。日本の建機メーカーでは、住友リンクベルトの他、クボタ、IHI、サカイ、タケウチ、ツルミ、東空、筑水キャニコムの他、伊藤忠商事の現地子会社MQMULTIQUIP)が販売する三笠産業やデンヨー等が出品していた。

三笠.JPG 120207_111441.JPG ホンダ.jpg 富士重工.jpg 

<ツルミ、IHI,クボタ、サカイ、タケウチ、三笠、住友、ホンダ、富士重工>

 アメリカに25年間住んでいるMQのチエアーマン兼CEOである安田氏に依れば、以前はもっと大きなスケールで開催されていたらしいが、BIGなレンタル会社は最近日本の様にメーカーが会社に売り込みに来るので、このレンタルショーに来る必要性がなくなり年々規模が縮小しているとの事だった。私の関心事は、日本以外の中国や韓国他のアジアのメーカーがどの程度幅を利かせて来てるかだったが、現在のところ目立った動きが無かったので少し安心した。 

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左からボルボの片側ショベル、ソーラー投光機、各種アミューズメント用品(バックのウオータースライダーが30万円で買えるって信じられますか¿角口氏は10セット買ったようです。/写真をクリックすると大きくなります>

 

当地ルイジアナ州ニューオーリンズには、リオのカーニバルなどと並ぶ世界で最も有名な、「マルディグラ」というカーニバル2月に催される。カーニバルとは謝肉祭の事であるが、この「マルディグラ」という言葉の意味は、その謝肉祭最終日の「ざんげの火曜日」のことを言うらしい。1699年、のちにニューオーリンズという町が出来上がるこの地域(ルイジアナ南部)には、或るフランス系カナダ人の探検家 が持ち込んだと言われている。 仮面舞踏会ストリート・パレイドが特徴的なこの祭りは、18世紀に入り、ニューオーリンズでは恒例の行事となっていった。その享楽的な性格ゆえに「マルディグラ」は何度か禁止となったそうだ。しかし多くの要望が有って、1830年代には正式に認められ、再びニューオーリンズの年中行事となったという。

 カーニバルのパレードは、幾つかのクルーによって組織される。クルーのフロート(山車?) に乗る者は、プレゼントとして群衆に向かってカラフルなビーズの首飾りダブルーン(doubloon、コイン)、装飾されたプラスチックのカップや、小さくて安価なおもちゃなどが多く投げるという。それらは、幸運を呼ぶと言い伝えられており、皆が奪い合うらしいのだ。大きなクルーになると、毎年同じスケジュールと道順でパレードを行うそうだが、フロートの上に乗る者は結構なお金を払って権利を買うそうだ。以前は黒人は参加できなかったらしいが、今は全く差別なく誰でも参加できるという。

私たちが到着した明くる日の金曜日は、「マルディグラ」が始まった初めての週末だった。最終日の11日間目はの最高潮に盛り上がり、フレンチ・クオーターの上流側にあるセント・チャールズ大通りとカナル・ストリートに沿ったルートを進みマルディグラ・カラーと呼ばれる紫・金・緑の三色に町中が染まるという。"紫は正義、金は権力、緑は運命"の象徴だそうだ。フロートからは、マルディグラ・カラーのビーズが大量に投げられるが、 一方で、女性が胸をあらわにして乳輪の大きさを競う風習もあり、毎年その様子を 撮影しようとする人々が訪れることで街は経済的に成り立っているとガイドさんに聞いたが、残念ながらそこまでは私は滞在できない。(~_~;)

「マルディグラ」はこんな恰好で楽しみます。 画像 303.jpg 画像 304.jpg 画像 309.jpg 120207_163611.JPG 120206_231348.JPG 画像 308.jpg 画像 312.jpg 画像 305.jpg IMG_0189.JPG

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窓からホテルの.jpgヒルトンガーデンイン・ニューオーリンズに到着し、早速チェックインを済ませ角口氏は444(縁起が良い?)号室へ、私は隣の442号室へ向かい部屋に入った。ところが驚いた事にドアを開けた途端、洋服が散乱しているではないか!人が未だその部屋に滞在していたのである。446号室に変えてもらったが、何と今度は部屋のセーフティボックスが壊れていて何度やっても閉まらない。係員が何人か入れ代わり立ち代わり入ってきて漸く直してもらった。漸く落ち着けたので、財布とパスポートをボックスに入れて、荷物の件で全日空の搭乗カウンターに電話し、荷物預けのナンバーを確認しようとしたら、日本はまだ早朝で3時間後の午前9時にしかオフィスはオープンしないと冷たいアナウンス。仕方なく、お金の整理をしようとセーフティボックスに入力した4ケタの番号をインプットしたら、今度はうんともすんとも言わず開かないときた。

再度係員を呼んだら今度は違う黒人の女性がやってきてトライ!、開かないため奇妙な道具を持参し何度かやっているうちに漸く開いた。又、開かなくてパスポートが取り出せなくんったらたら困るので又、部屋を変えてもらい2階の291号室へ移動。ところが、何かのイベントがあるらしく、部屋の前の通路には沢山の若者たちが居て騒がしい。再度『低層階が嫌い』という理由を言って落ち着いたのが、今滞在している7回の721号室である。(写真は、ホテルの窓から見えるコンベンションセンター)何と、4回も部屋を変えたのであった。(@_@;)

夕方には、角口氏と二人で近所のレストイランで食事。格好は来た時と同じで、所謂着た切り雀、疲れてたしスーツケースの事が気になったので食事も早々に切り上げホテルに戻った。しかし、部屋から何度かフロントに荷物が届いたかどうか問い合わせるも、未だ着かないという。時計の針が夜11時半を回ったところで、再度フロントに電話を入れたところ届いているという答えが返ってきた。何も着いたら着いたと連絡をくれてもいいじゃないか!と恨み言を唱えながらフロントに降りていき角口氏と私のスーツケースを両脇で押しながら彼の居る444号室のドアをノックした。ところが彼は中々出てこない。

3~4分ノックし続けただろうか?部屋から電話を掛けてみようと戻りかけたら、鍵の開く音がして、彼の眠そうな顔が現れた。何と1時間程前に眠りに着いたのだという。確かにこの状況では、ジタバタしてもしようがなかったが、私はそんな心境にはとてもなれない一日だった。彼はひょっとしたら本当に大物かもしれない? 220px-Rex06MGDayCanalCharters1.jpg

             <今週末から毎週カーニバルが続くというが、この話題は明日。>

2月3日金曜日朝8時(日本時間4日夜11時)無事にシカゴ(ORD)空港にANAのNH012便は到着した。ニューオーリンズへの乗り継ぎ便ユナイテッド航空UA333の出発時間は、9時38分。預けたスーツケースを取って乗継しても充分時間は有ると、鷹揚に構えシカゴのイミグレーションで入国手続きが済むのを並んで待っていた。ところが窓口が少ないため、行列は一向に進まず、途中からイライラしっぱなしで、漸くイミグレーションを通り抜けたのは出発の30分前だ。慌てて同行の全建リース協の角口会長をせかしながら、次のターミナルへとシャトル電車に乗り込み、降りた途端スーツケースをコンベアーにドロップしターミナル3に向かった。

何故かそこで再び、出国手続き同様の検査を受けターミナル3に入ったが、チケットを見せて乗り場を係員に尋ねたところ、乗り場はターミナル1だという。その時点で既に出発10分前、悪いことに脱いだハーフブーツに足が中々入らず、途中までその恰好で走ってターミナル1に向かった。しかし、どう考えてもきちんと履いて走った方が早いと悟り、履き直しって漸く搭乗口に辿り着いた。やれやれと胸をなで下ろし後ろを振り返ったところ、両手に紙袋抱え乍ついて来てくれてっると思った角口氏の姿が見えない。時計の針を覗いたところ、何と出発時間の3分過ぎ、止む無くたどたどしい英語で事情を説明し?もう少し待ってくれるよう頼んだら3分間だけ待つというつれない返事。

その待ち時間の長かった事!そしてドアが閉まる寸前、彼が乗り場に飛び込んできた。何でも走ってくる途中、横道にそれて又戻ってきたという。汗だくだくになりながら二人は、ファーストクラスの最前列の倒れこんだが、周りの冷たい視線が突き刺さるのを感じついて出た言葉が『アイム ソーリー!』。それから落着きを取戻し2時間20分後にニューオーリンズに到着、1番に機内を出て荷物引取所でスーツケースが出てくるのを、待っていた。ところが待てど暮らせど我々スーツケースだけが姿を現さない。"最後に入れたので最後に出てくるんだ"と言い聞かせ、更に待つこと15分、結局スーツケースは出てこずじまい。慌ててユナイテッド航空の荷物担当デスクに飛び込み、事情を説明し調べて貰ったところ、角口氏の荷物は未だシカゴに有るという答えが返ってきた。

しかし、この時点では私のスーツケースの行方は掴めなかった。何故なら、私は迂闊にも預けた番号札を、成田から乗った全日空の畿内に忘れてきてしまったのである。いかつい顔をした黒人の係員に、スーツケースの色・形を説明し、早急に滞在するホテルに送り届けてくれるように用紙に書き込んで渡したところ、シカゴに有ればその日の夜までには届けるという返事が返ってきた。不安な気持ちでタクシーに乗り込んだが、この続きは長くなるので明日にする事にしよう!・・・不運はなお続く? 120204_100542.jpg

  120204_100542.jpg 120204_131839.jpg 120204_101028.jpg 120204_125011.jpg<①ミシシッピー川のほとりのジャズのストリートミュージシャン、②ミシシッピー川を行く大型貨物船(まるで海みたい)③」観光客、大道芸人、アーチストが集まるジャクソン広場、中央セントルイス大聖堂をバックに第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの騎馬像が見える④とても一人では食べきれない昼食のハンバーガー>  

午前11時20分発の成田空港からのフライトでアメリカに旅立つ予定だ。目的は、アメリカレンタル業協会(ARA・本部イリノイ州ウオリーリン)が主催するニューオーリンズのレンタルショーに招かれたためだ。ARAのレンタルショーは、毎年持ち回りで四つの都市を巡っているらしいが、今年はニューオーリンズで開催される。海外は、2009年1月のハワイ以来だし、当地がジャズ発祥の地という事で音楽好きな私としては少し興奮気味である。かの有名なルイ・アームストロングもここ出身だと聞いている。

ニューオーリンズの人口は約48万人で、略千葉県の市川市の人口に毛の生えた程度だ。メキシコ湾に面しているため、ハリーケーンに襲われる事がしばしばで、2005年8月のハリケーン・カトリーナが襲来し壊滅的な被害を被ったことは記憶に新しい。アメリカ映画をこよなく愛する私だが、ニューオーリンズを舞台とした映画を調べてみると、『欲望と言う名の電車』(1951年/エリア・カザン監督)や『イージーライダー』(1969年/デニス・ホッパー監督)、『ペリカン文書』(1993年/アラン・J・バクラ監督)他名画が目白押しである。

250px-NLeviathanJazzFest.jpg                  <ニューオーリンズのジャズ・フェスタは超有名だ>

ご当地に付いては、下調べをしてもっと書きたい事が有るものの、家を出る時間が迫って来たのでこの位にしよう。現地からの私のレポートを乞うご期待!

古代、文字を書くのに鉛を動物の皮などにこすって記述したという。のちに、細長い鉛と錫の合金、即ちハンダの外側に木軸を巻きつけて作られたのが筆記用具としての「鉛筆」の始まりだ。黒鉛を使った鉛筆が最初に作られる切っ掛けとなったのは、16世紀でイギリスのカンバーランド地方に黒鉛鉱が発見された事に由来する。当初は、先端に黒鉛の小さな塊を詰め替えるものだったらしいが、やがて中心の芯の部分が黒鉛に変わり、削って使うようになったことで現代の鉛筆の原型が出来上がった。

faber-castell_logo.jpg 250logo.jpg1761年に世界で初めて鉛筆を製造販売したのは、ドイツの「ファーバーカステル」というメーカーである。現在では、全世界で14ヶ所の製造拠点と23ヶ所の支店を持ち、7000人を擁する筆記具メーカーに成長し、世界120ヶ国以上に販路を拡げている。鉛筆が六角形になったのは、1839年に4代目社長のローター・ファーバーが、鉛筆を握った時に、親指・人差し指・中指の3本の指の倍数である六角形が最もフィットし、文字が書きやすい形であると考え作り始め標準化した。同時に鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を設け、六角形の一つの面に初めて会社名を刻印したのである。

grip2001.jpg鉛筆が「緑色」をしているのは、6代目社長、アレクサンダー・ファーバーカステル伯爵が軍人であったため、それをイメージする色として「緑色」にしたのが始まりだそうだ。我が国で最初に鉛筆を使用したのは、徳川家康だと言われている。伊達政宗も使っていたらしい。当時の鉛筆のつくりは現代のものとほぼ同じだったが高価で普及せず、本格的に輸入が始まるのは19世紀後半の明治時代になってからだ。明治の初期は鉛筆の需要も少なく、東京や横浜の輸入品専門店で少量が売られるのみだった。又、現存する鉛筆メーカーとしては、真崎鉛筆製造所が最も古い。

fc_midtown.jpg               <「ファーバーカステル」の直営店は六本木ミッドタウン4階に有る>

現在、削る手間がいらないシャープペンシルやボールペン等に押されぱなしの鉛筆だが、線の太さや濃さ或いは色を自在に操れる筆記用具として廃れる事は有り得ないと思う鉛筆ファンの私である。

 

no_flash_prevention.jpg我々の小学生時代、遠足に持ってゆくお菓子の定番にグリコのクリームサンドビスケット「ビスコ」があったが、ニュースでそれが今大うけしている事を知った。江崎グリコは31日、2011年度の「ビスコ」の売り上げが、前年度より約4割多い45億円になりそうだと発表したのだ。 08年度の38億円を上回り、1933年(昭和8年)の発売以来、過去約80年間で最高となったそうだ。東日本大震災で工場などが被災し、同社が生産を絞り込んで定番商品の販売に注力したことや、災害発生時のための備蓄用「保存缶」が人気を呼んだためである。

私の小さい頃の「ビスコ」は、何となく"舶来の高級感"が漂い、紙の箱を開けて銀紙の包装紙を破いて食べる寸前まで心ときめいたものだが、今は缶入りが主力らしい。5枚ずつ分包したものが6袋入っている「保存缶」は、缶詰だから製造後 5年間は賞味期限が有るらしい。ところで、「おいしくてつよくなる」のキャッチフレーズで売った「ビスコ」、目印はパッケージに描かれたあの愛くるしい男の子の「ビスコ坊や」だ。そんな「ビスコ坊や」も時代の変遷と伴に、世代交代していることを皆さんはご存知だろうか?

写真上の現行の「ビスコ坊や」は,何と5代目らしい。私は「ビスコ」を形容して"舶来の高級感"という言葉を使ったが、正に2代目までの「ビスコ坊や」はネクタイをしていて見るからに外人ぽい風貌をしている。それが段々、ご覧の通り目が大きくて可愛い日本人の「坊や」に変わってきている。初代から唯一変わっていないのは、「ビスコ」が一口かじられているところだけだ。誰の顔をモデルにしたか興味が有ったので、グリコの広報部に問い合わせたところ、「特定のモデルはいません」との回答を得た。

03.jpg何れにせよ、そんなに人気が有るのなら近々私も買って数十年振りに孫と一緒に食べてみようと思っている。