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2011年11月24日(木) ≪談志が死んだ(後ろから読んでも/だんしがしんだ≫

"落語界の風雲児立川談志"が、壮絶な闘病生活の果てに身罷(みまか)った。談志は、1936年(昭和11年)生まれの75歳だった。3年前に発症し治療した喉頭がんが昨年11月に再発し、医者に「余命2~3カ月かもしれない、一刻も早く声帯を取る手術を」と言われたが、本人は拒絶し高座に上がり続けたという。談志生涯最後の高座となったのが、今年3月6日の「立川談志一門会」での『蜘蛛駕籠(くもかご)』だった。生粋の江戸っ子である談志は、高校を中退し16歳で5代目柳家こさんの門を叩き、最初は柳家小よしと名乗った。

古典落語を現代風にアレンジし彼独特の切り口で喋る歯切れ良さがうけてメキメキと頭角を現し天才と謳われたが、当時からシニカルで破天荒な言動が多く好き嫌いがはっきり分かれる噺家だった。一昔前、1932年(昭和7年)生まれで29歳で真打に昇進した5代目三遊亭円楽、1938年生まれで24歳で真打に昇進した3代目古今亭志ん朝、1934年生まれで31歳で真打に昇進した8代目橘家円蔵(当時は月の家円鏡)等と共に『江戸落語四天王』と呼ばれた時代が有った。

この中で談志が最もライバル視したのが、古今亭志ん朝だと言われている。特に1962年に、自分より5年も後に落語界に入った志ん朝が一足先に真打に昇進した時は相当ショックで落ち込んだらしい。この事が、後に師匠である小さんと袂を分かって「立川流」を創設した火種となったようだ。私は、この4人とも実際に高座で観た事が有るが、真打昇進が早かった志ん朝談志の語り口と間の取り方は絶妙だった。当時私は、4人の中で談志が一番好きだったが、1971年に政界入りしてから一番嫌いになった。落語と政治は両立しないと思ったからだ。

談志亡き後、四天王のうち最も庶民派の円蔵が残ったが、未だコメントは出していないものの談志と仲が良かっただけにさぞや寂しい想いをしている筈だ。今頃談志志ん朝、円楽は、あの世とやらで昔のように丁々発止とやっている事だろう。因みに談志の戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)と言うらしいが、生前、故人自身で決めていたそうだ。

    <最大のライバルと目された談志志ん朝。この写真からでも2人の熱演ぶりが窺える>
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