Archive: 2011年10月
11月3日で6歳の誕生日を迎える孫娘を連れて、先週の土曜日久し振りに鎌倉を散策した。池袋から湘南新ラインに乗り、丁度1時間で北鎌倉に到着し、円覚寺からあじさいで有名な明月院、昼食を済ませた後、鶴岡八幡宮を巡って小町通りを通り鎌倉駅で江ノ電に乗った。目指すは、長谷寺の観音さまと近くの大仏様である。時間が有れば、江の島まで足を延ばすつもりだったが、孫との約束通り大仏の中に入ったり、展望台から相模湾を眺めて居たらいつしか時間が超過し、横浜中華街の夕食時間が迫って来たため、止めにして宿泊地の横浜に向かった。
実は高校時代から鎌倉にはちょくちょく遊びに来ていたが、長谷の観音様と大仏様を観るのは初めてだった。それも直ぐお膝元にまで来ていたのだが、当時は若くて興味がなかったのかもしれない。と言うのは、高校時代の友人で鎌倉の長谷から私が通う武蔵小金井の中央大学付属高等学校まで通ってくる友人が居て、夏場は彼の家を拠点にして近くの由比ヶ浜に友達数人と繰り出していたのだ。彼の名前は吉田輝彦君、親父さんは弁護士で当時弁護士会の会長をされていたような記憶がある。居宅は、1100坪の敷地に立つ大豪邸で、隣は女優の香川京子さんの家だった。
所謂、昔で言うブルジョアの家系で家にはテニスコートが有り、大学に入ってから彼はジャガーを乗り回していた。おまけにお兄さんの愛車がMG、お母さんがフォルクスワーゲンのカブトムシと全て外車にだった事を憶えて居る。親父さんは、中央大学の法学部に行かせて弁護士にさせたかったらしいが、残念ながら彼は余り成績が芳しくなかった。性格も甘やかされて育ったらしく、少し軟弱で大人しく皆から好かれはするものの、からかわれる事も多かった。身体は大きくて少し太っていた為、運動は苦手だったが、テニスだけは上手だったと記憶している。
当時彼は面白い事に、1円玉を集めていた。1円玉は1955年(S30年)に造られた直径20mm、厚さ1.5mm、重さ1gのアルミニューム硬貨であるが、いずれ値が上がると信じていたのかどうかは知らないが、8円を10円玉と交換していた。コメットさんで知られる九重佑三子が好きで、彼女の為に金のネックレスを買って、自宅前で何日も待って渡そうとしたらしい(渡せたかどうかは、定かではない)。彼は高校2年の時、不良グループと付き合って退学になった。恐らく彼の性格からして、利用されたのであろう。
彼は、他の高校に転校し、大学は日大に進んだ。彼が大学を出て、望み叶わず?赤坂で喫茶店を数年間経営していた頃まで、付き合いは続いた。当時、引っ込み思案の彼には珍しく、可愛くて聡明なガールフレンドが出来ていた。その頃の彼の夢は、しょっちゅう遊びに行っていたハワイに彼女と一緒に移住する事だった。或る日の事、暫くぶりにお茶を飲もうとその喫茶店に行った処、その店は無くなっていた。気にも留めずに、それから更に10数年が経過した。その後たまたま彼の鎌倉の実家の近くに行く機会が有って、立ち寄ってみた処、実家は無くなり数軒の新しい家が以前の敷地と思しき土地に建っていた。
きっと今頃海が好きだった彼は、ハワイの海を眺めている事だろうと思う。
プロ野球の新人選手選択会議(ドラフト会議)が27日、東京都内のホテルで行われ大学生ビッグスリーの1人と言われた東海大学の菅野智之投手を、予想に反して日本ハムが引き当てた。最速157㌔を投げるこの右腕は、巨人原監督の甥っ子でドラフト会議直前まで巨人の単独指名が予想されていただけに、本人を含め関係者は複雑な表情である。特に原監督は、1昨年、昨年と何れも巨人志望とされた長野、沢村を単独で指名してきただけに、3匹目のドジョウを狙って文字通り横からすくいとられた格好だ。
当の本人も問われて、「原監督と一緒にプレーしたかった。夢ではなく現実となる日を思い浮かべていた」と答えたらしく、落胆の度合いが測れる。しかし私は、≪結果オーライだよ菅野君!≫と言ってあげたい。パリーグには、今シーズン2リーグ制になって防御率歴代5位(パリーグ2位)の1.27という素晴らしい成績を挙げた田中マー君や5年連続1点台の日本ハムのダルビッシュが居る。特にダルビッシュの記録は、かの金田正一や稲尾和久等の大投手も成し得なかった驚異的な記録なのだ。そのような環境に身を置いて、彼らから学び競い合ってこそ自分の成長が求められる筈である。
昔、「人気のセ、実力のパ」と言われた時代が有った。しかし、今はソフトバンクや日本ハム、ロッテや楽天が地方に根付いたため、今や名実ともにパ・リーグが優勢になりつつある。ソフトバンクが戦力や采配面で1歩頭抜けた感があるが、パは見てて面白い。巨人の原監督は、来年で第二次政権の7年目に入る。彼は、1次を含め巨人の監督をした8年間で4回(日本一2回)優勝をしている。輝かしい戦績であるが、ここ2年は何れもに3位と中日の後塵を拝している。来年若し優勝を逃すとなると、間違いなく彼は辞任するだろう。
どんな場合でも長期政権は、ほころびが出始めるものだ。菅野が原監督と同じチームでプレーをしても精々1年か2年だろう。小さい頃、原監督の引退試合に感動し彼のの率いる巨人を見続けてきた菅野もそろそろおじさんから巣立つ時期が来たのだ。原監督もそう言って菅野を諭すべきである。
た来月の中旬に予定されていた「東京建設機械リース業協会」のタイ研修旅行の中止が、今日決定された。報道に依ると、3日深夜(日本時間未明)、首都バンコクが冠水で危険な状況になる恐れがあるとして、バンコクのスクムパン知事が6地区の住民約10万人に避難勧告を出したらしい。予想ではバンコク北部を中心に、1メートル近くまで冠水する恐れがあるという。私は参加する予定ではなかったが、或る日本の建機メーカーの現地工場研修を中心に観光やゴルフの予定が組まれていたが、この状況での中止は当然の事だろう。
タイは1983年にも大きな洪水被害が有ったらしいが、今回のはどうも有史以来の大洪水らしい。我が国の洪水といえば、被害の大小に関わらずザーっと来てザーっと引いていく「あっという間」なイメージがあるが、タイの洪水は何週間も続くらしくイメージが湧きにくい。理由は、海やチャオプラヤ川の水面との標高差が殆ど無くて、水がまるで蛇の生殺しのようにジワリジワリと時間をかけてやってくるのだそうだ。従って、被害が長引くため日本のそれよりも大規模で、日数が経たないとどこにどんな被害が出るのか正確な情報を掴むことができないという。
それともう一つの原因として挙げられているのが、熱帯雨林の伐採だそうだ。実は私、今から15,6年前に一度タイに視察旅行に行った事があった。その後、タイは大きく発展をしたと聞いている。特にここ数年は、円高の進行と中国の人件費の高騰に伴い多くの日本企業がタイに進出しているようだ。私が知る限りでも何社かの建機のメーカーも進出している。従って、かつて日本が経験したように経済が先行して、政治が追いつかない状況を招いている筈だ。私の親しい友人も去年、政情不安で10日間も空港で足止めされたと言っていた。
私は、今回の視察旅行に行きたいと思っていたが、所用が有って行けなった。以前行った時と、今の変貌ぶりを確認したかったからだ。このような状況を招いたのも、きっと日本人が加担しいていると思う。森林を伐採し、工場を作って尚且つ札束で現地の人々を強引に動かしてきたに違いない。穿った見方かもしれないが、今こそ昔山田長政がしたようにシャムの国を助けなければない時が来たようだ!
Planet =惑星、Apes=類人猿(複数)、意味は文字通り『類人猿たちの惑星』、即ち映画の題名は、小説同様『猿の惑星』となっている。フランスの小説家、ピエール・ブールによるSF小説『『猿の惑星』(La Planète des singes)を、1968年にハリウッドがチャールトン・ヘストン主演で映画化したものだ。SF映画自体好きではない私も、人間を猿に模した特殊メイクが話題をよんでいたので、封切りと同時に観に行った。今では大して珍しくもないが、当時は精巧な特殊メイクに世界が感嘆し、その影響でアカデミーのメイキャップ賞が新たに創設された位である。
ご存じだと思うが、あらすじはこうだ。宇宙飛行士のテイラー(チャールトン・ヘストン)たちは、自動操縦での帰還中、ある惑星に不時着した。そこはなんと、人間がサルに支配された惑星だった。紆余曲折が有った後、衝撃的なラストシーンが・・・・・?。APEは、MONKEYよりしばしば狡猾で悪意を象徴する呼び名である。私の記憶では過去2001年までに、2シリーズ5作品が製作されたが、10年を経て今年新たに『猿の惑星・創世記』という作品が製作され、我が国で公開中である。
今回のストーリーは、こうらしい。「父のアルツハイマーを治そうと薬物研究者が新薬を開発、実験台としてそれをある雌猿に投与したが、実験は失敗し、雌猿は凶暴化した末に死亡する。研究者は、雌猿が産んだ仔猿を引き取りシーザーと名付けて育てる事にした。シーザーは成長するにつれ驚異的な知性を発揮していくが、ある日、隣人とトラブルを起こした研究者の父を守ろうとしたシーザーは隣人を襲ってしまい、それが原因で或る霊長類保護施設に送られてしまう。そこで、度重なる虐待を受け、人間そのものに対して深い失望感と憎悪を抱くようになる。やがて密かに施設を脱走したシーザーは研究者の家からその薬を大量に盗み出し、それを施設中の猿に与え高い知性を得た猿達を率いて革命を起こすのだが・・・・・?」
私にとって財布の入れ場所は、永遠のテーマである。ジャケットを着る機会が多くなった現在は、「二つ折り財布」を右の尻ポケットに入れている。しかし、カードが入っているし何か目的が有って大金?を入れている時など、嵩張って取り出し難い事が往々にして有る。それに第一ポケットが膨らんでみっともない。サラリーマン時代から、10年位前迄は「長財布」を愛用していた。長財布は、お札を折りたたまずに入れらるため、大事なお札も窮屈な思いをしなくて済む。(窮屈な思いをするほど、滅多に沢山は入れた事がないが?)。そう!財布の理想的な形は長財布なのだ。
サラリーマン時代のスーツは、私のサイズにフィットするものが少なくて生意気にも何時も誂えて居た。洋服屋さんに幾つか特注する中に、スーツの内ポケットの縦の長さを短くし、取り付け位置を普通より若干上げて貰っていた時期あった。胸板を厚く見せるためであるが、長財布は入れにくいし取り出し難い。それに、上半分が飛び出しているため上着を脱いだ時に甚だ不用心だ。一時期、財布や小銭入れ、ハンカチなどを入れる為、セカンドバッグ、それもヴィトンの黒を持っていた時期も有ったが、その筋の人の見られるため止めた。斯くの如く、世の紳士諸君も私の様な悩みを持っている人は、多い筈だ。特に、細いズボンを穿く機会が多い若い人たちにどう工夫しているか、ぜひ聞いてみたいものだ。
カード時代となった今、数えてみると私の財布には、免許証、健康保険証、クレジットカード、キャッシュカード、証券会社カード、スイカカード、JAF会員賞、病院受付カード、シネマカード、ゴルフ場会員証、航空会社カード等約20枚近くのプラスチックカードが私の財布を占拠している。その他にも、ペイパーカードが何枚か入っているから、財布の中身は、お札ではなく大半カードの重さが占めていると言っても過言ではないのだ。今カードを抜いた財布を持ってみたが、軽くて抜け殻同然のようで今更ながら誠に情けなくなってくる。
<常時持ち歩いている数多(あまた)のカード(これでも少ない方かも?)と抜け殻財布>
ここで皆さんに問いたい!どんな財布を持っていて、何処に入れて行動しているのか?それと何枚のカードを持ち歩いているか?を。聞いてどうするのかって?財布は2~3年毎に買い替えるのが良いとされています。当然、今度財布を買う時の参考にさせて頂くと同時、皆さんがどんなカードを持ち歩いていらっしゃるか、興味があるからです。
ゴルフをやらない方にはつまらない話題かもしれないが、今日はお取引先の方と行ったゴルフの話題である。昨日は久し振りに、雨上がりの『ザ・ゴルフクラブ竜ヶ崎』でプレーした。その昔、新車の建設機械を納めに行った憶えがある有るこのゴルフ場は、バブル絶頂期に造られた大きな木が生い茂る立派なコースだ。現在はPGM(パシフィック・ゴルフ・マネ-ジメント)が経営するゴルフ場だが、幾つか有る近くの姉妹コースに比べメンテナンスが行き届いているため、私が好きなコースの一つである。多少混んでいても我が家から車で約40~50分で行き着くため、アクセスの面でも便利なのだ。
昨日は生意気にもバックティから回ったのであるが、コースは6679ヤード・パー72でコースレートも71.6とやや難しいコースの部類に入るだろう。特にアウトの②番と⑤番のロングホールは共に600ヤード以上あり、多くのプレイヤーにとって厄介な名物ホールとなっている。ところがどうした事か?ハンディキャップ3の②番の612ヤードのロングで初めてパーが取れたのだ、それもバーディ逃がしのパーが。1打目のドライバーがナイスショット、スプーン(3番ウッド)で打った2打目がフックしてラフに捕まったものの、残り195ヤードで使った4番ユーティティも当たってグリーンエッジに。ピンまでの残り約10ヤードをパターで狙ったものの、僅かにピンに蹴られて結果はパー。
「たられば」は好きじゃないが、ピンを抜いていればバーディも夢ではなかったかもしれないと悔んだが後の祭りである。プロでも600ヤード超のロングで、バーディはそうそう取れるものではないだろうから惜しい事したもんだ。しかしフロックは何時までも続く訳はなく、ハンデキャップ1の⑤番ロングでは実力通りトリプルボギーを叩き、結果ハーフは48だった。インは47ストロークで、トータルは95だから今年の平均ストロークとほぼ同じで満足すべきかもしれない。
<左:コースで見掛けたサンシュウの赤い実、右:微妙に曲がりくねった610ヤード⑤番ロングホール>
改めて結果を分析してみるとトリプルボギーを3つ叩いており、しかもアウト・インとも上がり3ホールで5オーバー・7オーバー、トータル12オーバーと崩れたためスコアメイクがままならなかったようだ。後半にスコアを崩すのは、スタミナが切れた証拠で、更に体力アップに努めなければならない事を痛感した1日だった。
毎年10月20日は、「東産会」(とうさんかい)が帝国ホテルで5時から開催される。会場は毎年同じ帝国ホテル4階の「桜の間」だ。「東産会」とは、私が大学を出て初めて就職した三菱系の商社である東京産業株式会社の所謂OB会だ。現在、資本金約3,443百万円の東商1部の会社だが、私が入社した昭和44年当時は、資本金800百万円の2部上場会社だった。同期入社は、女子を含めると50人前後だったと記憶しているが、現在同社に残っているのは、専務のI君のみになってしまった。
H社長は、私の2年先輩で最初は経理部に入られたようだが、数年後に営業畑に移られ手腕を発揮されたようだ。温厚な方で、お会いしてお話する際は、何時もニコニコして気さくにお話頂ける。私は、20年間勤めてスピンアウトしたが、4年前に資格を得たため今回で確か3度目か4度目の参加となる。今年6月に完全にリタイヤーされた前社長のMさんは、昭和57年に私が九州福岡に赴任した時の、福岡支店長でご一緒した約3年間は思い出多い3年間だった。
当時は未だパソコンが導入される前でメールもなく、在福中の4年11ヶ月の間にプライベートを含め40回ほど東京に来た憶えがある。仕事上、全幅の信頼を頂いていたし、福岡は住みやすい都市なので公私ともに充実した数年間だった。会には、90歳位の人から今年定年を迎えた人まで約80名の方々が参加されたが、いずれも懐かしい人達ばかりで、時計の針が忽ち30~40年前に戻るから不思議である。会がお開きになった後、現役2人を含め私が配属された旧「建設機械部」の連中7人が集まり、久し振りに盃を酌み交わした。私が現在の職業に就いたのは、この会社に入った事が縁(えにし)なので、今後ともこの御縁を大切にしていきたいと思っている。
2011年10月20日(木) ≪B.tryゴルフコンペ≫
昨日、年に1度の当社主催のゴルフコンペを開催した。第4回と銘打っているものの、8周年記念の謝恩ご招待で韓国済州島で催した分を含めると正式には5回目となる。舞台は、1回目以外全て毎年同じ千葉の名門ゴルフコース「藤ヶ谷カントリークラブ」で行っている。このゴルフコース自体は、林間コースで、富澤誠造氏の傑作と言われているそうだ。コース全体にゆったりとした落ち着きがあり、ゴルファーとして癒される感じがするコースだが、コースレートが72.2と比較的難しい部類に入るゴルフ場だ。
今年は例年より少し早くアナウンスしたせいか?、例年に比べ2組増えた12組48人の大コンペとなった。主催者側からは私とワイフと営業の鈴木くんの3人が参加し、趣旨に賛同頂いた協力会社のメーカー・商社さんから9社9名の方が、協賛の賞品を携えてウィークデイにも拘わらず参加してくださった。この方々には、厚かましくも色々とお手伝いをお願いして居り、改めてこの場を借りて、衷心よりお礼を申し上げたい。参加人数も多いため準備に時間がかかり、協会の常任理事会も有ったりしてブログのアップも2日間失礼したが、特に賞品の選びに苦労した。
優勝は、A社の巻川氏でOUT39・IN39のグロス78、ハンディキャップ6、NET72.0の堂々たる成績である。賞品はツアーステージのファイズ最新モデルアイアン6本セットである。準優勝あはK社の布施さんで、同じく45・44のグロス89、ハンディキャップ16.8の72.2で、賞品は40インチのソニー薄型テレビである。第3位は、私と回ったNET72.6のO社の及川社長で、持ち前の豪打で賞品のソニー・メモリームービーをゲットした。女子の部は、M社の小倉さんの50.51、NET[77.0で協賛会社からご提供頂いた田崎真珠のブローチをお持ち帰り頂いた。
予定の4時には、この辺りの造園業のボスである宍倉さんの「一本締め」で無事お開きとなった。成功裏に終わる事が出来たのは、社員さんの頑張りと協賛会社様のご協力の賜物と深く感謝申し上げたい。えっ?私のスコアは幾つだったかって?これは、個人情報だから教える事は出来ません。(+o+)来年こそは、このブログで堂々と発表出来るよう頑張ります!
金曜日ワイフと≪さだまさしコンサートツアー2011≫を有楽町の東京国際フォーラムに観に行った。コンサートが開催された「ホールA」は、2層構造をもつ劇場形式で舞台面は4階部分になるそうだ。天井部分が8階に相当する大ホールで、座席数は世界でも有数の5,012席だそうだ。8か国語同時通訳システムを備え、国際会議や各種大会などあらゆる大規模催事に対応でき、AVネットワークを使った会場間の生中継によって、複数の会場を利用した一体感のある催事も可能なこのホールに満員の観客が詰めかけた。
必ずしも私は≪さだまさし≫のファンと言う訳ではないが、このコンサートを観に行くきっかけとなったのは、7月4日に観た『加山雄三コンサート』にゲスト出演していたさだまさしのトークが面白かったからだ。若者に人気のグループ"ゆず"等と一緒に出ていたが、短い出演時間にも拘わらず彼の喋りはメインの加山を喰っていた感が有る。噂に聞いていたが、幅広い話題で3時間ぶっ通しのコンサートは、概ね3分の2のトークで駆け抜けて行った。さだが好んで行う2,3曲歌ってトークを挟むという技法は何時も通りだそうだが、今回はその話題の半分以上が、「東日本大震災」後の被災地における支援活動を熱く語ることで終始した。
<さだまさしが歌った曲目/写真をクリックしてみて下さい>
彼の本名は佐田雅志と言い、長崎県で生まれた。裕福な家庭で育ち、3歳よりヴァイオリンを習い始めて毎日学生音楽コンクール西部地区大会で入賞するなどの上達ぶりを見せるが、1957年の諫早の大水害によって材木商だった父の事業は失敗し一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなったそうだ。国学院大学を中退、肝炎を患って長崎に戻った後、二人組のフォークグループ・グレープでデビューし、「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」、「関白宣言」、「親父の一番長い日」、ドラマの主題歌である「北の国から〜遥かなる大地より〜」など数々のヒット曲を生み出してきた。
「加山雄三」や「サイモンとガーファンクル」に影響を受けたと言う彼の曲調や歌詞は、物悲しいものから朗々と歌い上げるものまでクラシック音楽の技法を取り込み、聞く人々に感動と勇気を与えているように思う。但し、初めてのコンサートとて3時間ぶっ通しとは知らなかったので、アンコールの歌が始まる頃には缶ビールを飲んでいたせいでトイレに行きたくなり、気が気ではなかった。次に≪さだまさしコンサート≫に行く際は、水分を余り摂取せず臨まなければならない事を学んだ一日だった。
昨日に引き続き放射能の話題であるが、我々素人によく判らないのが≪放射線・放射能を表す単位≫である。我々がテレビや新聞でよく見聞きする単位は「シーベルト(Sv)」と「ベクレル(Bq)」である。シーベルト(Sv)は、空気中に浮遊する放射能の量で主に人体への影響度合いを表す単位を表し、ベクレル(Bq)は、放射性物質が1L(1Kg)当たり1秒間に放出される放射線の能力(個数)を表す単位だそうだ。 放射性物質にはさまざまな種類があり、放射性物質によって放出される放射線の種類やエネルギーの大きさが異なるため、これにより人体が受ける影響は異なる。
このため、放射線が人体に与える影響は、放射性物質の放射能量(ベクレル)の大小を比較するのではなく、放射線の種類やエネルギーの大きさ、放射線を受ける身体の部位なども考慮した数値(シーベルト)で比較する必要があるのだ。その他にも、放射性物質から放出された放射線は、ある確率で測定器で検知出来るようだが、1分間に被爆物体から放出される放射能の量を測定する基準値を、CPM(カウント・パー・ミニィツ)と言うそうだ。今現在、福島原発の20km圏内の「警戒区域」内に相当数のレンタル機械が稼働、或いは残されていると推測される。
去る12日に開催した私が代表をしている全建リース協の東京支部千葉協議会の「勉強会」で大手レンタル業者各社に発表して貰ったが、原発地域内に於けるレンタルや修理、返却時等の対応も足並みが必ずしも揃っていない。そろそろリース業協会でその基準値を決めなければならない時期に来ているようだ。今日、或る中古建設機械の輸出業者が我が社にやって来て、エジプトに輸出した中古機械が放射能汚染を理由に戻された告白してくれた。最近船会社が0.3マイクロシーベルトを超える機械や車輌、その他の物件は船に載せないというルールを策定したそうだ。
今迄、我が国も建機レンタル業者は堅調な中古輸出価格をあてにして廉価なレンタルを展開し、我が世の春を謳歌してきた。今後は、コストを転嫁するべくレンタル価格の正常化を目指すと同時に、協会基準を「0.3マイクロシーベルトまで除染してくれなければ受け入れないとする」位の強い姿勢で、社員の健康に留意して行かなければならないと考える。
今、観たくて仕方がないが少し観るのが怖く戸惑っている映画が有る。その映画の題名は≪「チェルノブイリ・ハート」≫、1986年4月26日未明、ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所の4号炉で起きた大きな爆発事故の後遺症を抱える子供たちの様子を描いたドキュメンタリー映画だ。 この爆発により一瞬のうちに原子炉が破壊され、火災が発生した。火災を消火するために、ヘリコプターから原子炉の炉心めがけて総計5,000トンに及ぶ砂や鉛などが投下され、火災は爆発から14日後の5月10日に漸く収まった。
チェルノブイリ原発事故の影響で、生まれながらにして心臓に重度の障害がある子どものことを現地では「チェルノブイリ・ハート」と呼んでいるそうだ。病名は多くの場合、「心房中隔欠損症」とされ、主に心臓に穴が開くなどの症状があり、手術をしなければ子どもたちの多くは成人できないまま死亡している。映画の中では、心臓に2つの穴が開いている少女のケースが紹介されているが、その少女は手術を受けることができて運よく完治したという。心臓手術の順番を待つ子どもたちは7千人もいて、多くの子どもたちは手術を受けることが出来ず亡くなってしまうことをこの映画は伝えている。
以前インターナショナルクラブに行った時、チェルノブイリに比較的近い地方に住んでいたという或るロシア人の女性から聞いた話だが、その周辺の小児ガンの発生率は政府が発表するデータより遥かに高いものだそうだ。きょうのニュースで船橋の『アンデルセン公園』で高い線量の放射能が検出されたという。過去何回か孫を連れて行った事が有る遊具も沢山あって楽しいところだが、当分の間は控えざるを得ないだろう。
私が住む柏市や周辺地域も比較的線量が高いといわれており、将来に禍根を残さないためにも国の責任において、県や市町村にもっと積極的に検査及び除染活動を推進するよう通達すべきである。
去る9日の日曜日は孫の蒼太郎の運動会で大忙しだった。朝7時40分に家を出て巣鴨の駅で長男家族3人と落ちあい、蒼太郎が通う杉並区荻窪の幼稚園に向かった。9時30分の開会式に間に合い、園長先生の話も聞く事が出来た。只少し戸惑ったのは、開始前の準備体操らしきお遊戯で年少組である当の蒼太郎は直立不動で一切身体を動かさないのだ。「先が思いやられるな」と心配していた矢先に、年少さんの徒競争が始まった。背があまり大きくない彼の出番は直ぐやってきた。結果は4人か5人で走って1番だった。
昼食時に何故冒頭のお遊戯に加わらなかったのか聞いたところ、そのお遊戯の音楽と振付が気に入らなくて『最初からやらないと決めていた』と答えた。又、前日には彼は父親に徒競争で『絶対一番になってやる』と宣言していたらしい。誰に似たのか判らないが、頼もしい?限りだ。幼稚園の運動会なんて久し振りだが、場が盛り上がったのは昼食前の年長さんのバトンリレーである。2組に分かれて年長さん全員が、バトンをリレーして走るのが声を涸らして応援するのは寧ろ父兄の方である。バトンリレーはオリンピックや世界選手権でもドラマが有るものだが、2転3転したものの小差で赤が逃げ切りメデタシメデタシである。
因みに、リレーの起源は古代ギリシャの"たいまつ競走"だと言われている。陸上競技としてのリレーが実施されたのは、1893年のアメリカで考え出したのは2人のペンシルバニア大学生らしい。1マイルを4人でリレーするというものだったが、彼らの考え出したリレー競走は、選手やコーチはもとより大衆にも人気を博し、1895年からは外部の大学、専門学校、高校を招き、大規模な競技会 (ペンシルバニア・リレーカーニバル)に発展したそうだ。何時からオリンピックに採用されたか定かではないが、陸上競技や水泳のリレー競技の決勝は人気の高さから最終日かその前の日に行われるのが通例のようだ。
この日の運動会は無事2時半ごろ終了した。私が思うに幼稚園の運動会としては時間が長い方だろうと思う。年少さんの何人かは疲れたせいか、欠伸をする園児もいたようだ。蒼太郎は、徒競争で1位になったせいか、最後の整理体操である園歌では機嫌よく演じて居た。そっと胸を撫で下ろし、お××ちゃんは家路へと向かったのである。
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2011年10月7日(金) ≪『名探偵なんか怖くない』≫
今日は「ミステリー記念日」だそうだ。1849年10月7日に推理(ミステリー)小説の先駆者といわれるエドガー・アラン・ポーが亡くなったことに由来するらしい。1845年に発表された『モルグ街の殺人』が、世界初の本格的な推理小説と言われているので我が国でそう決めたらしい。推理小説は、殺人・盗難・誘拐・詐欺など、なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くものだ。「探偵小説」と呼ばれた時代もあったが、「偵」の文字が当用漢字になかった用いられなくなった。
但し、「偵」の字が当用漢字として復活してからは、名探偵が登場するものを推理小説の1ジャンルとして響きがなつかしい「探偵小説」という呼び名で呼ぶ事も有るようだ。小説に登場する有名な探偵としては、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロ、エラリー・クイーンのエラリー・クイーン、我が国では江戸川乱歩の明智小五郎、横溝正史の金田一耕助などが挙げられよう。ここで私が以前読んだ事のある東西の名探偵が参集する趣向のパロディミステリーシリーズをご紹介してみよう。
題名が≪『名探偵なんか怖くない』≫といい西村京太郎著の「名探偵シリーズ」4部作の第1作で、何と明智小五郎、エルキュール・ポワロ、エラリー・クイーン、そしてジョルジュ・シムノンのメグレ警視の4人が探偵役として共演するものだ。下の本がそうだが、あらすじはこうだ。
『日本の老富豪・佐藤大造は、米国のエラリー・クイーン、英国のポワロ、フランスのメグレ、そして明智小五郎を自費で呼び集める。世界に名だたる名探偵である彼らに、一つの挑戦j状をつきつけた。それはあの三億円事件を実際に再現し、模倣犯の行動の軌跡を追うことで、本当の三億円事件の実態にも迫ってもらおうというものだった。4人の名探偵はこれを承諾する。佐藤の秘書役の青年・三島の前で、佐藤のもう一人の子飼いの青年・神崎が、この途方もない計画を進行する。やがて村越という若者が三島や名探偵たちの前に出現。村越は佐藤がお膳立てした計画のまま、佐藤が用意した三億円を奪う。だがそのうちに、計画にはないはずの殺人事件が発生して・・・・・。』
何とも奇想天外なストーリーだが、不思議なことに大分前に読んだせいか?この結末を思いだせない。昨日このブログを書こうと思ってその本を探してみたが、残念ながら見当たらなかった。どなたか結末をご存じの方は、是非ご一報賜りたい!
昨日、或る造園業のお客さんのゴルフコンペにワイフと共に招待された。コースは千葉の「小見川東急ゴルフクラブ」だったが、スタート直後から生憎の雨が降り出し、2~3ホール目で本格的な雨模様となってしまった。コースは丘陵コースで、林と水とマウンドが基本テーマだけに、スコティッシュムードの攻略性が高いゴルフ場である。アウトは樹木が多く林と水が基調で、インはマウンドやフェアウェイのウェーブ、ポットバンカーなど開放的なリンクス風とアウトとは趣が違っている。グリーンはベントのワングリーンで、アンジュレーションもあり形にも変化があるため、ある程度ピンポジションを把握して攻めないと4パットする恐れもある。
10組のショットガンスタートだったが、私たちは最終組の遅いスタートだったので終了したのが夕方5時近かった。最終ホールでは辺りが暗くなり打ったボールも見えにくく漸く上がって来れたという有様だ。結果は45-45の90ストロークで残念ながら40人中ん014位と不本意な成績だったが、同伴者お二人が気の置けない方々だったので雨中ながら楽しくラウンドさせてもらった。荒天にも拘わらず今年のラウンドの平均ストローク(内緒?)を何とか下回れたのは、この日のために数日間ウイークポイントの矯正のため練習場に通い詰めたお蔭だろう。
ゴルフのお上手な方は、この程度のスコアでと思われるかもしれませんが今の私にとってBAD CONDITIONの中のプレーではベストかもしれない。『努力は裏切らない』というが、今月はシーズンとあって当社のゴルフコンペ(10月19日)を含め、何回かコンペに参加する機会が」ある。精々精進して良い成績を納めたいたいものである。

<柏しょうなんゆめファーム>は、首都圏からほど近い千葉県柏市の手賀沼のほとりにできた、アウトドア公園だ。我が家から15分程度で行きつくが、周りに何もなく場所の探索で活躍したのが息子の「スマートフォン」である。彼から少し前から便利だから携帯電話を「スマートフォン」に変えたらとのアドバイスを受けているが、未だ踏み切れない。「スマートフォン」とは携帯電話、PHSと携帯情報端末(PDA)が融合したデジタルツールだ。
要するにPCと携帯端末が融合したもので、インターネットの閲覧は勿論の事PCで作成したオフィスドキュメントの閲覧及び編集が可能なのだ。我が国の携帯電話はエンターテイメント機能の多機能進化で、ビジネス用途が重要視されていない気がする。これに対して欧米ではビジネス用途を強化した幾つかの機種が優位を保っており、それらのジャンルを「スマートフォン」と呼ぶのである。PCや携帯端末に比べて機能や性能、スピードに劣りボタンも少ない事から余り情報入力やメールに向かないが、長時間の駆動が可能で場所も選ばず軽量という利点が有る。
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2011年10月3日(月) ≪「男はつらいよ」シリーズ≫
『わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。皆様ともども冥利ジャンズ高鳴る大東京に仮の住まいまかりあります。不思議な縁持ちまして、たった一人の妹のために、粉骨砕身、バイ(商売)に励もうと思っております。西に行きましても東に行きましても、とかく土地土地のお兄貴(あにぃ)さんお姐(あねぇ)さんにご厄介かけがちな若僧でござんす。以後見苦しき面体、お見知りおかれまして、恐惶(きょうこう)万端ひきたって、宜しくお頼み申します。』
これはご存じ松竹製作の渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)で48作品作られた『男はつらいよ』シリーズの冒頭で語られる"フーテンの寅さん"の口上である。実はこの前代未聞のヒットシリーズのもとになったテレビドラマが1968年(昭和43年)の今日、10月3日にフジテレビ初めて放映された。翌年まで続いたこのテレビ版はヒットしたが、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブに噛まれ、毒が回り死んだと言う結末に視聴者から多数の抗議が殺到して、その結果映画化につながったという。
主人公「フーテンの寅」こと車寅次郎の生い立ちを紹介した映画の第1作目のストーリーはこうだ。寅次郎は父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供である。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定だ。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる異母妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。
最も有名なシーンと言われているのが、第15作の男はつらいよ 寅次郎相合い傘の中の1シーンだ。浅丘ルリ子演じるリリーをキャバレーまで送った寅次郎は、そのあまりの環境の劣悪さに驚き、肩を落としてとらやに帰って来る。「俺にふんだんに銭があったら・・・」寅次郎は大ステージで歌い上げるリリーの姿を想像し、臨場感たっぷりにさくらたちへ語って聞かせる。寅次郎の切ないまでの愛情が渥美清の名演技によって表現されている。山田洋次監督によれば、完成後日浅丘ルリ子がこのシーンを見て涙を流していたという。
このシーンに限らず、渥美清独特の語り口によってなされる"一人語り"はスタッフの間から「寅のアリア」と呼ばれていたそうだ。先週、日経新聞夕刊のコラム欄でリリーこと浅丘ルリ子が唯一持っているサイン色紙が渥美の書いたサインと寅さんの似顔絵だと告白していた。渥美が晩年ガンを患いながら弱った身体に鞭打って「男はつらいよ」シリーズの撮影を続けていた時にせがんで貰ったそうだ。そして、最後の作品で『"寅さん"と"りりー"を結婚させて下さい!』と山田洋次監督に訴えた事も披露していた。
<「フーテンの寅さん」こと車寅次郎は亡くなった後、柴又駅前の銅像として生まれ変わった>
渥美清は、一時期中央大学に在籍していたことがあったそうだ。私の先輩?「フーテンの寅さん」は、きっと末永く我々日本人の心の中に生き続けて行くことだろう。



