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7月30日(金)   ≪「プロレス記念日」と力道山≫

image.jpeg1953年(昭和28)7月30日、力道山が中心となり日本プロレスリング協会が結成された。そう今日は、それを称えた「プロレス記念日」である。力道山はその前の年、プロレス修行のためハワイへ出発し、その後、アメリカ太平洋岸を転戦し、300戦295勝5敗の成績を残して帰国、同協会を設立したそうだ。第二次大戦後の復興期に、萎え切っていた日本人の心を高揚させたのはアメリカ人を「空手チョップ」でなぎ倒す力道山と当時世界記録を連発した水泳の「フジヤマのトビウオ」こと古橋廣之進であった。

特に力道山は、大相撲出身だが1947年に関脇で突然廃業、プロレスラーに転身して大成功を収めた。私も子供ながら、シャープ兄弟を始め、キングコングルーテーズ(彼には一度バックドロップで失神させられた)、フレッド・ブラッシーボボ・ブラジルパット・オコーナージェス・オルテガカール・ゴッチなどとの名勝負に心踊ろされたものである。我が家でも力道山の勝負見たさにテレビを購入したが、我が国におけるテレビの普及に彼は大いに貢献した。1963年(昭和38年)のザ・デストロイヤーとのWWA世界選手権の視聴率は、未だに64%で歴代4位の記録が残っている。

又、当時日本の総理大臣の名前は知らないが、力道山の名前は知ってる外国人も多く、郵便物は「JAPAN 力道山」で届いたという。力道山の本名は、百田 光浩(ももた みつひろ)だそうだが、元々15歳で朝鮮から来日したらしく、朝鮮名は金 信洛(キム・シルラク)と言うらしい。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。朝鮮在住時代に既に結婚しており子供もいたことからみて、実際は公称生年月日よりも5年くらい早く生まれていると思われる。彼は朝鮮人だ知られる事を極端に嫌い、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっていたと記憶している。

二人の実息も父親が朝鮮人だと言う事を力道山の死後知ったらしい。ジャイアント馬場大木金太郎アントニオイ猪木などのプロレス界のスターを育て日本プロレス界の礎を築いた彼も、1963年12月暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であっ村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。その傷がもとで一週間後に化膿性腹膜炎で39才?の若さで命を落とすが、力道山のバックについて莫大な富を築いていた暴力団東声会は、資金源を失い住吉との抗争事件に発展したのである。

当時、プロレスや相撲、歌手など芸能界の興業には、常に恐そうなお兄さんたちがうろついるというのが常識だったのである。