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2010年1月12日(火)   ≪谷中「法蔵院」≫

法蔵院.JPG年末に行けなかったので、一昨日の10日家内方の墓所が有る台東区谷中「法蔵院」(左)に墓参りに行ってきた。この「法蔵院」さんは、天台宗の由緒あるお寺だそうで、何でも江戸の地に徳川幕府が開かれた慶長3年に遅れる事13年後の慶長 16年 (1611 年)に江戸城の建設や市街地の拡張のため大工事が行われ際に、神田寺町に寺領を賜り、 浅草の東光院末寺として開創された由。 その後、 江戸の町は徳川幕府の中心地として発展を続け、 人口も増加したため、 神田寺町の寺院は他所に移されることになり、 慶安元年 (1648 年) に「法蔵院」さんも、谷中の現在地に移転したそうだ。

≪谷中≫と言う名前の由来は、上野と本郷の二つの台地の谷間に位置することから名付けられたようだが、谷中生姜でも知られるこの地には、現在生姜を作っている農家は一軒もないとの事。江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中にもその子院が次々と建てられたそうだ。また、幕府の政策により慶安年間(1648年〜1651年)に、前述の如く神田付近から多くの寺院が移転して来たが、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院も移転して来たそうな。寺の増加(現在70ヶ寺以上)に伴い参詣客も増えると徐々に町屋(町人の住まい)も形成され、江戸庶民の行楽地として発展したようである。

しかし、戊辰戦争(ぼしんせんそう)慶応4年(明治元年)~明治2年(1868~69)の折の薩長土肥の新政府軍と彰義隊による上野戦争で多くの寺院が焼失したと言う。「法蔵院」の先代のご住職にお聞きしたのだが、残念ながら當山の記録、 書類なども戊辰戦争の際に焼失してしまい、 その歴史はつまびらかではなないそうだ。又、近くの谷中霊園には、鏑木清方佐々木信綱渋沢栄一徳川慶喜ニコライ・カサートキン長谷川一夫鳩山一郎横山大観などの墓所があり訪れる人も多いと聞く。

実は私、数年前に自宅の近くの手賀沼が望める丘の霊園に 自分の墓所を確保した。しかし現在都内に住む息子たちは、以前我が家で育ったにも拘わらず、『えらい遠いね!』とのたまう。故に、そこを返して「法蔵院」さんの空き墓所をお世話頂こうかと迷っているところである。但し、価格は恐ろしくて未だ聞いていない!
街角賞.JPG ヤマダ.JPG〈(左)築200年以上の観音寺の築地塀・(右)「法蔵院」に行った時には必ず立ち寄る裏の浄土真宗「善龍寺」にある山田レンタル故山田明前社長のお墓(H7年50歳にて没)〉