Archive: 2010年1月
≪朝青竜≫が、土俵際に追い詰められた。事の発端は、初場所中の16日未明都内で起こした泥酔暴力騒動の相手が当初言われていた個人マネージャーじゃなく、一般男性と判明したからである。昨日の理事会で師匠の高砂親方は「(被害者とは)示談した」と状況を説明したが、ある外部役員が「示談書を見せてください」と詰め寄ると、慌てて「作っていません」と回答したことも尾を引き、彼の相撲界からの追放も噂されている。
≪朝青龍≫の優勝回数は、25回と大鵬、千代の富士に次いで歴代3位で平成の大横綱と言えるだろう。彼の184cm・147kgの体躯は、大型力士全盛のこの時代、決して大きくない。もっとも、「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」と言われた不世出の大横綱で「角聖」の異名で知られ69連勝で有名な双葉山が179cm・128kgだそうだから、その当時に彼が居たら大きい部類に入るかもしれない。彼の言動や振る舞いは常に物議を醸しており、2007年には2場所出場停止の処分が下されたが、瀬戸際で踏ん張ってきた相撲界のヒールも今回で命運が尽きるだろう。
ここに来て、二所一門を破門された貴乃花親方の理事立候補が話題になっているが、これを機に保守的な相撲界の体質が変われば良いと思うのは私だけではないだろう。昨日東京駅から船橋まで総武線で帰って来た際、若い力士2、3人がグリーン車に乗っているのを見かけた。大したお金ではないが、何とも贅沢な話である。昔聞いた話だが、元阪神の掛布は食堂に入っても常にテーブルの下に10本の指を押し当て指と手首を鍛えていたそうだし、電車に乗っても座らずにつま先立ちで、ずーと立っていたという。
最近こういう選手は少なくなって来たかもしれないが、有名プロスポーツ選手は常に心身を鍛え、ファンにアグレッシブなプレーを見せて貰いたいものである。特に日本古来から続く国技の大相撲は、新しい時代の中にも燦然と輝く古き良き伝統を引き継いで行って欲しいものである。
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昔から大きな駅の側にに有る建物は、銀行・保険会社そしてデパートと相場が決まっていた。しかし昨日、1984年(S.59)に開業し現在セブン&アイ・ホールディングスが経営する、都心の一等地にある≪西武デパート有楽町店≫を、同社は長期の消費低迷などで黒字転換のめどが立たないとして、年内に閉店すると発表した。西武デパートは、堤清二氏がヨーロッパにならい「ファッションの総合商社」として1940年(S.15)に池袋本店を皮切りに開業した百貨店であるが、ある時期再編・統合を経たものの、昨今の低価格衣料専門店の攻勢など高額商品主体の百貨店そのものの存在感が薄まり、や止む無く閉鎖を決めたらしい。
過去にも都心から「有楽町そごう」や「池袋三越」が撤退したが、全て「ビックカメラ」等の大型電気店に様変わりしている。そう!現在駅の側に有るのは、銀行は別として大型電気店か「ユニクロ」と相場が決まってきた。≪西武デパート有楽町店≫は、「阪急百貨店」と有楽町マリオンの中でハーフスペースで展開しているが、ここが以前「日本劇場」、いわゆる≪日劇≫であった事を知る人は、最近少なくなって来た。≪日劇≫は当初、「陸の龍宮」「シネマパレス」といった構想のもと、収容客数4000人の大劇場、かつ本邦初の高級映画劇場として計画された。屈曲した外壁、広大な舞台、アールデコ調の内装など、当時としては画期的な建築要素をふんだんに取り入れ大林組の施工により、1933年(S.8)12月に盛大にオープンした。
戦後、帰国した「李香蘭」(山口淑子)の歌謡ショーで観客が劇場の外に溢れ、"7周り半"したとか、昭和30年代はロカビリー旋風に乗り、「ウエスタン・カーニバル」が大盛況となった等、一時期歌謡界の歴史を築き上げたのである。あのNHKの「紅白歌合戦」も1953年(S.28:司会/高橋圭三・水の江滝子)と1960年(S.35:同/高橋圭三1・中村メイコ)と2回開催されている。又、5階には私も高校時代に学生服のまま興味本位で覗いた経験もある劇作家の丸尾長顕が設立した「日劇ミュージックホール」もあった。
所謂ここは、高級ストリップ劇場で、コント55号やツービートを産んだ浅草フランス座と並び昭和の娯楽の黄金時代を支えた。この頃の代表的なダンサーとしては、伊吹まり・メリー松原・春川ますみ・奈良あけみ・あき竹城・アンジェラ浅岡などがおり、トニー谷、泉和助、関敬六、E・H・エリックたちがコントを担当していた。そして時代の移ろいと共に、1981年(S.56)娯楽の殿堂も老朽化には勝てず、閉鎖したのである。今後の関心事は、跡地に何が入るかであるが電器屋さんやユニクロさんには、今回はご遠慮願いたい。≪日本劇場≫の復活というのは、どうだろうか?平成の新しい芸能文化の発信地としては、誠の相応しい場所である!
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ジェームズ・キャメロン監督のSF大作「アバター」の全世界興行収入が、同監督の「タイタニク」の記録を抜き、歴代1位となったそうだ。配給の20世紀フォックスによると、同作品の世界全体の興行収入は、25日までに18億5900万ドル(約1665億円)に達し、更新不可能と言われていたタイタニックの持つ18億4300万ドルの記録を僅か約6週間で塗り替えたという。「アバター」は北米では6週連続で首位をキープしており、ゴールデングローブ賞のドラマ部門で作品賞も受賞。米アカデミー賞作品賞にもノミネートされると予想されているが、この作品の制作期間は5年以上で、制作費は少なくとも3億ドル以上が投じられたと伝えられている。
「アバター」とは、元々サンスクリット語で「地上に降りた神の化身又は分身」という意味だそうだ。この映画の特徴は、未知の星を舞台に人類と先住民との戦いをSFアドベンチャーとし3次元映像で描かれており、それが話題となりリピーターも沢山居ると聞く。日本でも26日現在、興業収入が70億円超えたそうだが、どうも私はSF映画を基本的に余り好まない。その理由は、非現実的だし最近のそれは、CG(コンピューグラフィック)が駆使されているからである。「タイタニク」もそうだったが時代の流れと言ってしまえば、それまでである。
映画を大別すると、劇映画(フィクション)・ドキュメンタリー(記録)映画・アニメ(漫画)映画そして実験映画(表現技法を実験的に試みた映画)がある。今話題の「オーシャンズ」は、ドキュメンタリー映画の代表格と言えるであろうが、私の好きな劇映画も分類すると沢山のジャンルが有るようだ。例えば、順不同だが①アクション(ギャング・ヤクザ・カンフー・カー等)②サスペンス③スリラー④SF⑤コメディ⑥スペクタクル⑦探偵⑧スポーツ⑨青春⑩西部劇⑪戦争⑫パニック⑬ミュージカル⑭恋愛⑮ファンタジー⑯児童⑰時代劇⑱プロバガンダ等、思いつくまま上げても斯くの如しである。
私の映画好きの理由は前にも述べた通り、今は亡き長兄・次兄や正月にも会った6歳上の兄貴達3人の影響が大きいようだ。彼らも私同様、アクション映画や西部劇、戦争映画やサスペンス、スリラー或いはミージカル映画が好きだった。しかし、これだけ話題になってくると映画好きとしては気になるもので、兄貴の意見を聞きながらこの映画を見るか見ないか?判断しようと思っている!
昨日のブログを書くため岩崎家の家系図を見ていたら、≪澤田美喜さん≫の名前を見出した。今日は美喜さんと彼女が創った≪エリザベス・サンダース・ホーム≫の事を書いてみよう。美喜さんは、三菱財閥3代目久弥の子として1901年(明治34年)に東京都の文京区で生まれた。従って三菱の創設者岩崎弥太郎の孫に当たるが、「美喜」という名前は曾祖母・美和と祖母・喜勢から一字づつもらってつけた名前だそうで、名付け親は叔父にあたる三菱財閥2代目岩崎弥之助だという。
美喜さんは、祖母・喜勢から寝物語に祖父や父の話を聞いて育ち、それが後の人生の道しるべともなり小さい頃より妹たちに比べ男まさり、豪気で行動の人"女弥太郎"はまさに祖父の隔世遺伝?と言えるかもしれない。1922年(大正11年)にクリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗し、アルゼンチンを皮切りに中国・イギリス・フランス・アメリカを巡るが、その間孤児院ドクター・バーナードス・ホームの院長やジョゼフィン・ベーカーやマリー・ローランサンに出会い大きく人生観を変えるのである。
第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。それも祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら!ある日満員列車で美喜さんの目の前に網棚から紙包みが落ちてきたのは、黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜さんの頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。そして、イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえったのである。美喜さんは天命を覚えて身震いし、「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる...」と叫んだという。
夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。その結果、1947年(昭和22年)、美喜さんはついに別荘を400万円で買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もある≪エリザベス・サンダース・ホーム≫をスタートさせたのである。その時美喜さんは、46歳だった。その後美喜さんは1953年(昭和28年)小学校と中学校を併設した「学校法人聖ステパノ学園を創立し、約2000人近くの混血児を育て上げ世に送り出したが、1980年(昭和55年)5月12日スペインのマヨルカ島において心臓発作のため78歳で急死した。
確か去年だったと思うが、テレビで≪エリザベス・サンダース・ホーム≫から巣立った人達が澤田美喜さんを偲ぶドキュメンタリー番組を放映してしていたのでご覧になった方も多いだろう。私は、彼女のような人にこそ『ノーベル平和賞』が相応しいと思うが、如何だろうか?
〈エリザベス・サンダーホーム定礎式の澤田美喜さん〉
2010年1月25日(月) ≪旧岩崎邸庭園≫
昨日私の兄弟6人の新年会で、浅草の観音さま(正式名称:聖観音宗金龍山浅草寺/しょうかんのんしゅう・きんりゅうざん・せんそうじ)に詣でた。3年振りの浅草寺だったが、仲見世通りは外国語が飛び交う相変わらずの大賑わいで、歩くのがままならないほどである。本堂は『平成本堂大営繕』の中のチタン屋根改修工事が始まっており、ご覧の通り大きな龍の絵が描かれている工事シートが掛かっていた。その後池之端に移動し「東天紅」で昼食を済ませた後、すぐ裏にある≪旧岩崎邸庭園≫を覗くことにした。
ここは、三菱の創設者岩崎家の旧邸宅を東京都が公園として整備したもので、英国人のジョサイア・コンドル設計の歴史的建造物は、国の重要文化財に指定されている。元々は、越後高田藩江戸屋敷跡らしいが、変遷を経て岩崎家の本邸として竣工した明治29年(1896年)には、今の3倍ほどの15,000坪余りの敷地に20棟もの建物が並んでいたそうである。現存するのは、本格的洋風建築の木造2階建の洋館とそれに地下道で繋がる撞球室(ビリヤード場)、そして橋本雅邦が描いた障壁画を残す書院造りの和館のみである。
係りの人に聞いたところに依ると、NHK大河ドラマ「龍馬伝」に岩崎弥太郎が度々登場するせいか、ここ最近訪れる人が増えたそうだ。蛇足だが、私は親父が三菱鉱業(今のマテリアル)で生涯を全うしたことに加え、私自身が三菱系の商社に約20年間身を置いたせいか、どちらかと言えば三菱贔屓である。三菱村?の「丸の内」で勤務していた13年間は、親父同様キリンビールしか飲まなかった。(もっとも当時丸の内には、殆どキリンビールしか置いてなかったと記憶している)しかし、三菱と縁が切れた今では、その当時を反省してか?アサヒやサッポロを頼むことが多くなった。
今話題の音羽の「鳩山会館」にも近々行ってみる積もりだが、寛永寺や迎賓館或いは池上本門寺や東京国立博物館等の重要文化財を巡るツアーも有るそうで、是非暇を見てチャレンジしたいと考えている。
2010年1月22日(金) ≪大学入試センター試験≫
今年も≪大学入試センター試験≫が去る1月16日と17日の二日間に亘り実施された。昨年の507,621人を上回る511,000人以上が受験したと思われるが、俳優のラサール石井氏が受験した事が話題になった。売名行為ではなく、間寛平氏の「アースマラソン」に取り組む姿勢に触発されたらしい。特別に準備をして受験した訳ではないそうで結果は芳しくなかったようだが、54歳の彼は来年もチャレンジし、5年以内の合格を目指すという。
正式名称を大学入学者選抜大学入試センター試験と言うこの試験は、1979年(S54)から1989年(S64・H1)の間、国公立大学の入学志望者を対象として実施されていた「大学共通一次試験」(共通一)を、1990年(H2)から国立大学の共同利用機関である大学入試センターの実施する「大学入試センター試験」に変更し、私立大学も試験成績を利用できるようにするなど、試験自体を流動性のあるものに改められたのである。今年受験者数が増えたのは、景気の低迷を反映したもので、授業料が安くて近い国公立を選ぶ傾向が顕著になったのであろう。
文系が6教科7科目・理系が5教科7科目何れも900点満点だが、受験者数が増えた今年は双方の平均点が数十点づつ下がっているそうだ。外国にもこの類の試験は有るそうで、多少システムは違うようだが、 韓国大学修学能力試験・ アメリカ大学進学適性試験 ・フランスバカロレア・ ドイツアビトゥアなどがこれに相当するらしい。私は、附属高校から大学に進学したので2教科の学内選考試験の経験しかないので、受験しないまでも来年は試験問題にチャレンジしてみようかと思っている。
昨日ラジオで、中国の「一人っ子政策」に付いて特集していたのが面白く、聞き入ってしまった。遠い昔、「シナには四億の民が居る」と歌われていたが現在中国の人口は、13億人とも14億人とも言われている。「一人っ子政策」とは、中国が改革開放政策が始動した1979年に始まった人口規制政策のことを指す。幾何級数的人口増に法規制を加え、出産または受胎に計画原理を導入した結果、現在の中国本土では少子化が進行しているという。この政策により、中国はある程度の人口抑制に成功したが、その一方で本政策はいくつかの問題を抱えているようだ。
この政策は、都市部に多く住む漢族と人口が多いチワン族のみに課せられたものだが、一人っ子達は、両親と祖父母の6人(全員存命であった場合)の大人から一身に愛情を受けて育つため甘やかされ、小皇帝(女児の場合小公主)とも呼ばれ、それ以前の世代とは異なる価値観を持っているそうだ。甘やかされて自分で家事を行う経験も乏しいため、自分だけで生活しなければならなくなっても、家事ができないケースが多く、都会でその連中が身を寄せて暮らす姿を中国では「蟻族」(ありぞく)と呼ぶらしい。
子供は戸籍上では一人しか持たないとしても秘かにに産んだ子供が戸籍外で生まれ、成長していった。黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれるこうした子供は、国民として認められないため学校教育や医療などの行政サービスを受けることがでず、従って人口分布も定かに掴めないのである。加えて労働力確保のため、女の子は堕胎し男の子だけを生むケースが多発したため男女のバランスが崩れ、結婚できない男性が増えていると聞く。又、結婚した女性がそれをひた隠しに働く事を、「隠婚」(いんこん)と言うそうだ。
一方、人口が減り始めた我が国では昨年の統計に依ると、出生率が少し上がって1.3人となったそうだが、それよりも低いのが台湾の1.0人だそうだ。昨年の出生者数が19万人だそうで、早ければ2017年には人口が減り始めるそうで、早速台湾政府は我が国同様「子供手当」の支給を決めたそうだ。「北京オリンピック」に次ぐビッグイベントである「上海万博」が後約100日と迫りつつあるが、今世紀に最大の躍進が予想される中国圏の人々は、これらの課題をいかに乗り越えて行くのだろうか?
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2010年1月20日(水) ≪ツルが死んだ日≫
昨日、1951年から我が国の空に輝き続けていたツルのマークでお馴染みの≪日本航空≫が会社更生法を申請し事実上破綻した。グループ3社の負債合計2兆3221億円というのは、戦後4番目の大型倒産らしいが金融機関を除く事業会社としては、「そごうグループ22社」の倒産を凌いで過去最大という。日航と言えば、我々が子供の頃一度はパイロットやキャビンアテンダント(当時はスチワーデスと言った)に憧れたもので、就職時も人気度ベスト10に入っていたような気がする。
日航は、ご承知の通り1953年に国が50%を出資し半官半民となったのを機に国際線に参入し、「ナショナル・フラッグ・キャリアー」として路線網を拡大し1992年には英国・ルフトハンザに次いで世界3位の航空会社にのし上がったのである。2001年の米同時テロや2003年の新型肺炎の流行時の危機をしのいだ日航も、今回は金融危機に依る景気の冷え込みや原油高の影響をもろに受け抗しきれなかったと言われている。しかし最大の原因は会社の体質と地方空港を98も作り続け赤字路線に就航を強いて来た国策に有ったようだ。
人件費の売り上げに対する割合が全日空の1.6倍だと言うし、つい最近迄高いコミッションを払って旅行代理店に航空券の販売を依存して来たというから、このネット社会に於いて何をか況やである。海外路線に日航に遅れて就航した全日空が、健全体質を保っている事や、お金を出して支援した?株主が損をし、オマケで貰ったマイレージが保護されるなどの事例は皮肉だと言わざるを得ない。海外に路線を持つ航空会社所謂"メガキャリアー"を複数持つ国は、アメリカと我が国だけだと言われて居り、今後は日航の再生を任された稲盛和夫氏が、この辺りをどう判断するか注目である。
今回の法的整理は民主党政権でしか成しえなかったと言われているが、私が九州に赴任していた5年間の約40回にわたる「福岡~東京」の往復以来殆ど日航を利用しているし、成田国際空港を抱えるご当地千葉県には日航グループを顧客としている企業が165社も有るそうで、"視界不良"ながら是非共"不死鳥"の如く蘇って欲しいものである!
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2010年1月19日(火) ≪レクサス「LFA」≫
日本には、民主党の鳩山さんや小沢さんのようなお金持ちが沢山居るらしい。何故なら、報道に依るとトヨタが新たに発表した最高時速は325km/h以上の本格的な"超高級"スーパーカー(日本円で3,750万円以上)である≪レクサス「LFA」≫に予約が殺到したと言う。このプレミアムカーは、全世界で500台を限定生産し日本では165台を販売する予定らしいが、2009年10月21日から半年間に渡って予約を募るところが、締め切り前の12月末迄に応募が500を超えた事から、2010年1月13日をもって購入予約を締め切ると発表したそうだ。
LF-Aとは「Lexus Future Advance」の頭文字を取ったものだが、この車は4.8リットル、560馬力のV型10気筒エンジンを搭載し「フロントエンジン・リアドライブ方式(FR)の2シータースポーツカーで、価格もさることながら性能は、イタリアのフェラーリなどに匹敵すると言われている。≪レクサス≫はご承知の通り、「壊れにくいが安っぽい」という日本車のイメージを払しょくし、キャデラックやベンツ・BMW等のドイツ車の牙城に食い込むためにトヨタが1989年にアメリカで最初に展開したブランドである。
ホンダの「アキュラ」や日産の「インフュニティ」等もほぼ同時にアメリカに進出したが、2006年の統計ではアメリカの高級車の販売台数はベンツを押さえてトップだそうだ。このLFAは、2010年12月より市販仕様車の生産を開始し、抽選でで決定した165人のオーナーに引渡し・納車となる手筈だそうだ。我が社の車好きのスタッフに依ると、昨年お台場の「メガ ウエブ レクサスギャラリー」にガードマン付きで当該車が展示されていたそうだが、当然キャッシュで購入するであろう1億2千万人分の165人とはどんな人達か?興味が尽きないところである。 (-"-)
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(2012年にはスペシャルカラーの設定車が発売される予定)
2010年1月18日(月) ≪「空白の1日」≫
「空白の1日」としてプロ野球史上に最大の汚点を残した"江川事件"の被害者である小林繁氏が、昨日57歳の若さで亡くなった。「空白の1日」とは、1978年に巨人がドラフト会議の前々日ぎりぎりまで交渉を続けていた球団が次のドラフト会議場に移動するため協約で規定されている「空白の1日」を利用して、その年の目玉投手だった江川卓と電撃契約を結んだ日の事を指している。セリーグ事務局は、即座にその契約を無効との判断を下したため、怒った巨人は、その翌日のドラフト会議をボイコットしたが、ドラフトでは阪神・南海・ロッテ・近鉄の4球団が江川を1位指名した。そして抽選の結果、阪神タイガースが交渉権を得たのである。
しかし、巨人の圧力を感じた金子コミッショナーは、阪神は江川と契約した後、巨人へトレードに出すように要請。このトレードの交換選手として挙げられたのが巨人のエース小林だった。1月31日に阪神は、江川と契約を結び、翌2月1日に小林は、巨人に入る江川との交換で阪神へ移ったのである。小林は「同情してほしくない」「野球が好きだから喜んで阪神に行く」と気丈に答えたことはいまだに語り草となっている。こうした二人の対照的な行動は、当時「エガワる」(ダーティなイメージ)「コバヤる」(悲劇のヒーローのイメージ)という流行語まで生み、一種の社会現象になったのである。
あれから31年経ったが、小林繁投手との交換トレードで念願の巨人入りを果たした江川卓氏(55歳・現野球解説者)は17日夜、東京都内のテレビ局で取材に対し、「(小林氏が)亡くなったからといって、申し訳ないという気持ちは終わらない」と、目を真っ赤にして言葉を詰まらせたと言う。かつてのドラフト騒動は、今もぬぐうことのできない負い目となっているようだ。そこで、私は巨人と阪神どちらが得をしたか調べてみたところ、2人の戦績面に於いて非常に興味深い事に気付いたので、ここに記してみた。
実働年数 引退時 登板回数 先発 完投 完封 勝敗 勝率 防御率 奪三振
江川卓 09年 32歳 266 252 110 27 135勝72敗 65.2% 3.02 1366
小林繁 11年 31歳 374 268 96 19 139勝95敗 59.4% 3.18 1273
実働年数が違うのと、小林投手が後年抑えに回ったため登板回数に違いが有るものの、何と似通った成績であろうか!益して共に在籍した1979~83年の5年間は、江川が80勝49敗(勝率62.0%)で小林が62勝39敗(同61.4%)とほぼ互角にに近い活躍をしている。但し、江川が対阪神戦には36勝18敗なのに比べて小林が巨人戦に13勝15敗と負け越しているので、やや巨人の方に部が有るのかもしれない。しかし個人的に見ると江川が、自分の仕出かした事件?に依って球界の指導者になれない事を考え併せると、どちらが幸せだったかは自明の理である!
〈常に打者の懐深く投げ込んだ阪神当時の小林繁投手の勇姿〉
2010年1月15日(金) ≪ウイスキーのハイボール≫
ウィスキーの消費量は、焼酎の台頭や若者がビール等の軽い酒類を好むため市場縮小の一途を辿っていたが、ここにきて少し持ち直して来たそうだ。その理由は、歌手の石川さゆりさんの"♪ウイスキーがお好きでしょ もう少し しゃべりましょ ♪"というBGMで女優の小雪さんが出演したお馴染みのサントリーのCMが影響しているらしい。ウイスキーのトップメーカーのサントリーは、もはやウィスキーの会社ではなく、DAKARAやCCレモンを代表とする清涼飲料水メーカーというイメージが強いが、キリンとの経営統合を前にして、少しだけ息を吹き返したのかもしれない。
このCMでは、ウイスキーの≪ハイボール≫が飲まれている。我々の学生時代や若かった頃は、ウイスキーと言えばストレートか≪ハイボール≫が定番であった。今のように水で割るのはもったいないと思っていたし、水は傍らに置いて珠に飲むだけだった。それがいつの間にか"水割り"となり、≪ハイボール≫を飲むことが少なくなり、その名も死語になりつつあった。≪ハイボール≫とは、ウイスキーのソーダ割りのことで語源は諸説あるが、「サントリー用語辞典」に依ると有力なのは次の2つだそうだ。
ある日、スコットランドのゴルフ場で、ウイスキーのソーダ割りを飲んでいた人のところに、高々と打ちあげられたゴルフ・ボールが飛び込んできたから、というのが1つ。また、19世紀のアメリカの鉄道は、高い鉄塔に気球を吊し、それを信号係が上に高く掲げるとGOのしるしになった。セントルイスの信号係にウイスキーのソーダ割りが好きな人物がいて飲むたびに≪ハイ・ボール≫といったところから、この名がついたとか。その他、ソーダから上昇する泡をボールに見立てて、≪ハイボール≫と呼んだという説もある。
≪ハイボール≫を美味しく飲むためには、沢山かき混ぜては炭酸ガスが逃げてしまい、せっかくの爽やかな味わいが台無しになるらしい。今日は、『東京建設機械リース業協会』の賀詞交換会の日だが、2回ほどかき混ぜた美味しい≪ハイボール≫を飲んでみようかと考えている。
〈ウイスキーの消費量が多い地域と少ない地域/さすがに焼酎の生産地である九州は少なく北海道・東北地区が多いようである。但し、東北地区で飲まれているウイスキーは或理由でニッカが圧倒的に多いそうだが、それは機会が有れば後日触れてみたいと思う!〉
2010年1月14日(木) ≪性格俳優?香川照之≫
年末年始にNHKの"大河ドラマ"のスペシャルドラ"坂の上の雲"と今年始まった"龍馬伝"の中で、或る1人の性格俳優が際立って見えた。それは、≪香川照之≫44歳で"坂の上の雲"では正岡子規を"龍馬伝"では、三菱の祖である岩崎弥太郎を好演している。何でも正岡子規を演じるに当たっては、子規が晩年結核を患っていた事から食事制限やランニングで5ヶ月で15kg減量したそうだ。彼の父親が歌舞伎役者の三代目市川猿之助、母親が宝塚出身の女優浜木綿子であることから、根っからの役者魂が身に付いているのだろう。正に今日では貴重な性格俳優、即ち劇中人物の性格を巧み
調べてみると1965年12月生まれの彼は、両親の離婚後母親の浜に引き取られ暁星学園から東大文学部第4類社会心理学専修に進学し、卒業後これと言った目的もなく俳優の道を歩むこととなったらしい。1989年の大河ドラマ『春日局』の小早川秀秋役で俳優デビューし話題を集め、その後『静かなるドン』などのVシネマや橋田壽賀子脚本によるTVドラマが活動の中心であったが、2002年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した『鬼が来た!』での好演に伴い、徐々に知名度が高まった。そして同じ年のNHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で豊臣秀吉を演じたことで一般的にもその存在が広く知られるようになったようだ。
彼は、過去20年間に私の知る限りでは"坂の上の雲"を含めると7回ほど大河ドラマに出演しており、NHKにとっても貴重な俳優になりつつある。一方彼は、専門家も舌を巻くほどのボクシング通でも知られて居り、連載している専門誌に「ガードを固め、テクニックがないのにがむしゃらに前進するファイターが賞賛される日本のボクシングは遅れている」と厳しく批評したというから大したものだ。猿之助は別として、ユーモアとウイットに富んだ役柄が似合った母親の浜木綿子は好きな俳優の一人だったので、そのDNAを引き継いでいる彼の今後に大いに期待したいものである。
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〈映画「劔岳 点の記」で第33回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した香川照之)
2010年1月13日(水) ≪蕎麦か?うどんか?≫
私は、無類の麺類好きである。普段会社に行く時は弁当を持参するが、弁当がない時や外に出掛けた時などの昼食は、従って麺類を食べる事が多くなる。日本蕎麦からうどん、ラーメンやスパゲティ等何でも御座れであるが、最近では太るので脂っこいラーメン等は極力我慢するようにしている。TVのコマーシャルにつられ、昨晩「週刊江戸」を買って読んでいたら江戸時代の"暮らしの大全"の食(グルメ)の欄に、≪蕎麦か?うどんか?≫という記事が載っていた。
それによると、江戸時代末期の風俗を記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という随筆には、「京や大坂ではうどんを好む人が多く、又麺類を売る店も、もっぱら、うどん屋と称す。江戸では蕎麦を好む人が多く、商人も、蕎麦の販売をもっぱらとしていて、うどんが売られる場合は、蕎麦の傍らでそれと兼ねて販売されている」と明確に解説されて居り、関東人の蕎麦好きと関西人のうどん好きは、江戸末期まで遡っても良さそうだと記されていた。私も九州に居た小さい頃は、もっぱらうどんを食べていたし、当時の大晦日の「年越し蕎麦」も何故かうどんが多かったように記憶している。
元々江戸でも寛政年間(1789~1801)以前は、うどん屋さんが主流であったが、18世紀半ば頃から蕎麦屋さんが台頭して来たようである。最近蕎麦が好きになった私は、年に何回か、かの有名な明治13年(1880年)創業の「かんだやぶそば」に"せいろ蕎麦"と"天たね"(芝海老のかき揚げ)を食べに行くことが有る。「やぶそば」の青みがかった蕎麦は、創業者七兵衛が夏場のヒネの時期にそばもやしの青汁を打ち込んで清涼感と新蕎麦の青みを出そうと工夫したものらしい。のど越しもよく、つけ汁も絶品で値段だけの事は有るし、何と言ってもオーダーの際の符丁が昔乍らで風流なのが好きだ。
昔、知り合いから面白い話を聞いた事が有る。或る九州の田舎者?が夏場に上京して割と有名な蕎麦屋さんに入り、暑いので型通りうどんのせいろを注文し、瞬く間に平らげたという。そこで蕎麦を食べていた周りの人達を見回すと、全員が蕎麦湯でつけ汁を飲んでいたので、東京ではそうするものと思い込み自分も怪訝な顔をする店員に、うどん湯を注文し真似をして飲み干したそうだ。旨くも何ともない汁を飲んで初めて事の次第を察知した彼は、バツが悪そうに口の周りに付いた白い粉汁を、急いで吹き取ったそうな!(●^o^●)
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〈週刊「江戸」の記事と「かんだやぶそば」の"せいろ蕎麦"とてんたね"〉
2010年1月12日(火) ≪谷中「法蔵院」≫
年末に行けなかったので、一昨日の10日家内方の墓所が有る台東区谷中の「法蔵院」(左)に墓参りに行ってきた。この「法蔵院」さんは、天台宗の由緒あるお寺だそうで、何でも江戸の地に徳川幕府が開かれた慶長3年に遅れる事13年後の慶長 16年 (1611 年)に江戸城の建設や市街地の拡張のため大工事が行われ際に、神田寺町に寺領を賜り、 浅草の東光院末寺として開創された由。 その後、 江戸の町は徳川幕府の中心地として発展を続け、 人口も増加したため、 神田寺町の寺院は他所に移されることになり、 慶安元年 (1648 年) に「法蔵院」さんも、谷中の現在地に移転したそうだ。
≪谷中≫と言う名前の由来は、上野と本郷の二つの台地の谷間に位置することから名付けられたようだが、谷中生姜でも知られるこの地には、現在生姜を作っている農家は一軒もないとの事。江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中にもその子院が次々と建てられたそうだ。また、幕府の政策により慶安年間(1648年〜1651年)に、前述の如く神田付近から多くの寺院が移転して来たが、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院も移転して来たそうな。寺の増加(現在70ヶ寺以上)に伴い参詣客も増えると徐々に町屋(町人の住まい)も形成され、江戸庶民の行楽地として発展したようである。
しかし、戊辰戦争(ぼしんせんそう)慶応4年(明治元年)~明治2年(1868~69)の折の薩長土肥の新政府軍と彰義隊による上野戦争で多くの寺院が焼失したと言う。「法蔵院」の先代のご住職にお聞きしたのだが、残念ながら當山の記録、 書類なども戊辰戦争の際に焼失してしまい、 その歴史はつまびらかではなないそうだ。又、近くの谷中霊園には、鏑木清方、佐々木信綱、渋沢栄一、徳川慶喜、ニコライ・カサートキン、長谷川一夫、鳩山一郎、横山大観などの墓所があり訪れる人も多いと聞く。
実は私、数年前に自宅の近くの手賀沼が望める丘の霊園に 自分の墓所を確保した。しかし現在都内に住む息子たちは、以前我が家で育ったにも拘わらず、『えらい遠いね!』とのたまう。故に、そこを返して「法蔵院」さんの空き墓所をお世話頂こうかと迷っているところである。但し、価格は恐ろしくて未だ聞いていない!
〈(左)築200年以上の観音寺の築地塀・(右)「法蔵院」に行った時には必ず立ち寄る裏の浄土真宗「善龍寺」にある山田レンタル故山田明前社長のお墓(H7年50歳にて没)〉
2010年1月8日(金) ≪上田胃腸クリニック≫
今朝1年振りに池袋の≪上田胃腸クリニック≫(03-5953-5903)で胃カメラを飲む予定だ。要するに胃の内視鏡診断をして貰うのである。45歳を過ぎてワイフと共に毎年行っている恒例行事?で、大腸検査は3年に1度行っている。同クリニックの上田院長先生には、開業される前の「平塚胃腸科外科」(同池袋)勤務当時の1987年(S.62)から診て貰って居り、謂わば私たちの"掛かり付け医"である。先生は、1949年(S.24)生まれで昭和医大の医学部を1975年(S.50)にご卒業後、「虎の門病院」で修行を積まれ、前述の「平塚胃腸科外科」での医療活動を経て、確か10数年前に当初豊島区庚申塚の自宅で開業されたと記憶している。
最初は、今は亡き長兄の紹介で先生を知ったが、その後私の兄弟全員が通うこととなり、肺癌で亡くなった次兄の初期の胃癌を見つけて貰った。滅多に病院に行ったことがない同業のI氏が胃潰瘍になった折も、無理矢理連れて行き一緒に診て貰った結果、完治し感謝された事も有った。その際の帰りに立ち寄った近所の寿司屋の親父さんから「自分も上田先生に胃癌を発見して貰った。あの先生は胃の内視鏡技術では我が国の3本の指に入る名医だ」と聞いて、何故か意を強くしたものである。又、先生は平成5年には 日本消化器内視鏡学会指導医の資格を得られたと聞いている。
元々胃カメラは、1930年にドイツでガストロフォトール(Gastrophotor)の名で商品化までされたが、当時では実際の使用には役立たなかったようだ。その後、1950年(S.25)に東大医学部附属病院の故宇治達郎氏が、オリンパス光学工業(現オリンパス)の技術者2人の協力を得て胃内撮影装置を完成、発表した。この装置では、幅6ミリメートル・長さ30センチメートルのフィルム上に約25コマの写真を撮影できた。以後、東京大学医学部の内科および外科を中心にして、その改良とそれを利用した診断法の確立への努力が続けられ、1960年ごろから日本全国に普及し、現在では日本製の内視鏡が広く世界で使用されていると聞く。
胃の内視鏡と言うと皆さん怖がるが、上田先生の検査は痛くも痒くもない。アッと言う間に終わるし、懇切丁寧にと言うか、ぶっきらぼう(*^_^*)に 詳しく説明してくれるので安心である。余り愛想の良い医者は、私は信用しないし経験上"藪"が多いように思う。先生の趣味は、海釣りと演劇鑑賞だそうだ。クリニックには、開業当時から大きな獲物の魚拓が飾られているのである。それにもう一つ付け加える事が有る。先生の奥さまも、クリニックに出ていらっしゃるが、踊りの名取だそうで大変な美人である。
正月で飲みすぎて胃の調子の悪い人には、ご紹介するので是非≪上田胃腸クリニック≫での検査をお勧めする。但し、早めに申し込まないと2、3ヶ月待ちとなるのでお急ぎあれ!!!
〈≪上田胃腸クリニック≫の池袋西口の所在地/HPご参照)![]()
2010年1月7日(木) ≪ジグソーパズル≫
昨日は年末以来飲み続けていた酒を断った。滅多にないことだが、年末年始に知り合いの方の御不幸通知が幾つか届いたため、自分も少しは身体をいとわなければと考えたからだ。私は普段、仕事から家に帰ると必ず真っ先に風呂に入る。そして食卓に向うのだが、先ずは350mlのビールをつまみを食べながら一気に飲み干し、それから食事をしながらお気に入りのワイングラスで赤ワインを飲むのが日課となっている。ところが、昨日はその儀式がなかったためあっという間に食事が終わり、手持ち無沙汰となってしまった。
疲れからか本を読む気にもならないし、ワイフが見ているテレビの「皇室アルバム」の特集にも付き合う気がせず、昨年の21日にもブログでもご紹介したディズニーの≪ジグソーパズル≫をやることにした。1000ピースなので結構難しいが、時間をこなすにはもってこいのゲームである。≪ジグソーパズル≫のジグソーとは、英語のjigsaw(糸鋸、いとのこ)のことであり、元々このパズルが木の板を糸鋸で切って作られたことからこの名がついた。1760年頃に、ロンドンの地図職人が、子供の教育のためにピースが国の形のジグソーパズル(完成すると地図ができる)を作ったのが最初だそうだ。
最近では、したウィキペディアのロゴのような3Dパズルやコンピューターゲームでやる≪ジグソーパズル≫もあるそうだが、やはり昔ながらの紙で作られたシンプルなものが好ましいと思う。目が疲れたので11時半頃止めたが、ご覧の通り未だ500ピース前後しか完成していない。長男の嫁が、一緒にやるのを楽しみにしているようなので敢えて完成させることが出来ないと思っているものの、正直言ってそろそろ助っ人が欲しくなってきた。3000ピースまで有るというから私の趣味の一つに加え、世界の風景画のパズルにでも、何れ挑戦してみたいと思っている。(●^o^●)
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〈未だ500ピース程度?)
2010年1月6日(水) ≪船橋大神宮≫
初出勤の昨日、営業・メンテ他各セクションの代表を引き連れて≪船橋大神宮≫に詣でた。例年「商売繁盛と安全祈願」の為にお参りし、お札と社有車用の「お守り」を購入するだけだったが、今年は神殿に昇り、玉ぐしを捧げて御祈祷して貰った。理由は言わずもがな、今年が我が社にとって正念場となるだろうという事と、昨年の暮れに軽傷であるが場内で怪我人が2人も出たからである。
≪船橋大神宮≫は、この近辺では結構有名な神社で歴史的も古く、社伝では景行天皇40年(西暦100年)に日本武尊の東征の折に、当地で東国平定のを祈願したのに始まると伝えている。正式名称は、意富比(おおひ)神社と言うそうでその由来は、・大火或いは大炊の意で食物神とする説・夕日を真正面に受ける高台にあることなどから夕日とみる説・古代の有力豪族である意富氏の氏神とする説など様々あるようだ。天照大神を主祭神とし、徳川家康公や秀忠公も合祀しているというから、何れにせよ由緒正しい神社のようである。
私が神仏に真剣に帰依するようになったのは、会社を興してからである。私の力が及ばない事が、多々あり、神仏にすがりたいと思ったからだ。これは昨日のラジオで聞いた話だが、関西地方の或農家の方は、元旦に必ず早く起きて裃(かみしも)を纏い畑に行って、「畑の神様」を自宅にお招き入れお風呂を沸かし山海の珍味でもてなすという儀式を必ず行うそうだ。何だか分かるような気がするし、いつの世も精神的に神仏の存在は大きいように思う。
さて、私たちにとって今年の≪船橋大神宮≫の御利益(りやく)や、如何に?
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〈≪船橋大神宮≫の社殿と交通安全の「お守り」〉
2010年1月5日(火) ≪謹賀新年≫
今年は"寅年"です。新年早々の朝礼で、我が社のスタッフに"寅年"で思い浮かぶ諺を聞いたところ、「虎の威を借る狐」「虎穴に入らずんば虎児を得ず」「虎の子」などが出てきた。いずれも中国の故事成語から来たもので、虎は強いものの代表格と言える。又、「虎は千里を行って千里帰る」という例え通り移動範囲が広くて帰趨本能がある為、戦時中の「千人針」の絵柄に用いられたという。
我々以上の年代では、「トラトラトラ」と言う暗号文が印象に残っている筈だ。これは、太平洋戦争の始まりである日本軍の真珠湾攻撃で、ハワイ攻撃隊長・淵田美津雄中佐機による成功を伝えた電信文で、「ワレ奇襲ニ成功セリ」と言う意味だったようだ。1970年には、このタイトルで日米合作映画が作られたが、元々聖徳太子が信貴山にて物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したという伝説にちなんでいるそうだ。
何れにせよ、"寅年"は十二支の中でも縁起が良い干支だと言われているが、果たして今年の景気はどうだろうか?昨日の東京株式市場の「大発会」では、株価が1年3ヶ月振りの高値水準に回復したし為替相場も93円と円安に推移し、出足はまずまずのようだ。しかし、人口の減少に歯止めがかからず過去2年間で21万人減り、又生産年齢人口(15~64歳)も150万人減少したという。従って、大きな景気回復は望めないものの、これ以上の景気後退はないと私は考えるし、考えたい!
個人的には、今年正月は息子夫婦家族と合計8人んで過ごした穏やかな正月でした。又、社内での年頭の挨拶も今年は、渋面を作らず笑顔で接したいとスタッフに伝えたところであります。皆様方に於かれましては何とぞ、今年も稚拙な小生のブログにお付き合いの程を、切にお願い申し上げます。
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〈(左)我家の"おせち"の一部?(中)近くの公園で凧上げに興じる二男夫婦(右)年末に急に我が社のスタッフから帰ってきた私の手作り"お年玉袋"〉



